4-15
ゆっくりと、まぶたが持ち上がる。
光が差し込み、ぼやけた視界が少しずつ輪郭を取り戻していく。
そこに映ったのは、どこか懐かしく、よく知る天井だった。
透き通るような淡い光を纏う天蓋。
流れるように織られたカーテンの布地が、風に揺れて小さくささやく。
何度も目にしたことのあるこの部屋。
それは、魔法ギルドの本拠地である風の街エルセリオの塔。
その奥深く、静寂のなかに設けられた、ベルのための私室。
数年に一度、ふと顔を出すこともあれば、人の寿命ほどの長い時を空けて訪れることもある。
それでもこの部屋は、いつ来ても変わらず、清らかな風の魔力に満ち、時の流れを忘れさせる。
ベル「……どうして、ここに……?」
声にならない声が、喉の奥でかすかに震えた。
意識の底に沈む記憶を引き上げようとするけれど、糸は途中でぷつりと切れてしまう。
どうして、自分はここにいるのか。
いつから、何があって、どうやって。
考えを巡らそうとするたび、意識がふわりと風に溶けていく。
違和感は確かにあるのに、それを「不信」として言語化するよりも先に、ふいに感じた気配が、胸を撫でる。
エラヴィア「おはよう、ベル」
その声を聞いた瞬間、ベルの緊張がほどける。
身体の奥にまで馴染んだ、その魔力の気配。やさしい風のような音色。
ベル「……エラヴィア」
その名を口にしたとき、ベルは確かに微笑んでいた。
まるで、疑うことすら思い出せないほどに。
エラヴィアはゆっくりと歩み寄り、ベッドの上で身体を起こしかけていたベルの隣に膝をつくと、その額へそっと手を添えた。
すっと冷たい指先が触れる。
まるで風のような魔力をまとった手のひらは懐かしくて優しい、けれどどこか、ほんの少しだけ違和感があった。
エラヴィア「……体調は悪くなさそうね」
安心したように目を細めて、穏やかな笑みを浮かべるエラヴィア。
その笑顔に、胸の奥がふと揺れる。
温かなはずなのに、触れてはいけない領域に触れているような感覚が、ベルの心にわずかに滲む。
額に置かれた手の温度に戸惑いながらも、ベルは口をひらく。
ベル「エラヴィア……私、どうしてここに」
だがその言葉は、最後まで続かなかった。
ふと視線を落とした先に、それはあった。
エラヴィアのもう片方の手。
しっかりと巻かれた白い包帯。その隙間から、じわりと赤がにじんでいた。
ベル「……その手は?」
思わず問いかけるベルに、エラヴィアは微笑んだまま、何でもないことのように言う。
エラヴィア「少し、切っただけよ。大丈夫。心配してくれてありがとう、ベル」
その言葉には確かに優しさがあった。
だがベルの胸の奥に、ひどく細い棘のような違和感が静かに突き刺さる。
この部屋の風は、いつもより少しだけ重たかった。
ベルは薄く目を伏せ、静かに呼吸を整える。
どこかがおかしい。
そう感じる瞬間が、時折胸をかすめる。
考えようとする。
けれど、そのたびに思考の輪郭が霞み、風に溶けて消えてしまう。
まるでこの部屋そのものが、ベルの思考をやんわりと包み、奪い取っていくかのように。
ベル(誰かが――待っている……)
そんな感覚が、胸の奥にぼんやりと灯っていた。
どこかへ行かなければならない、そんな気がする。
けれど、その“どこか”が思い出せない。
すぐそこにあったはずの記憶が、指の間から砂のように零れ落ちていく。
エラヴィア「しばらく、この部屋でゆっくり休んでちょうだい」
エラヴィアの声は、いつもと同じ優しい調子でそう告げた。
理由は告げられなかったが、ベルは特に問い返すこともしなかった。
不思議と、その必要すら思いつかなかった。
それでも、何かが胸にひっかかっていた。
だからベルは、エラヴィアが去った後、ふと立ち上がり、部屋の扉に手を伸ばそうとする。
けれど――
手が扉に触れるよりも早く、ベルの足は止まった。
身体が拒んでいるのではない。ただ、“出たくない”という思いが、ごく自然に心の内に浮かんだ。
ここにいることが正しい。そう思わされるような、静かな囁きが空間に満ちていた。
部屋に残されたベルは、静かな風の音に耳を傾けながら、ゆっくりとベッドの縁に腰を下ろした。
天井を見上げると、見慣れた装飾の陰影が穏やかに揺れている。
その様子は懐かしくもあり、どこか遠い過去のようにも思えた。
ふと、先ほどのエラヴィアの手の温もりが、額に残っている気がした。
それは冷たく、しかし優しい手だった。
熱を測るような仕草。
そして、「しばらくゆっくり休んで」と告げた声。
その一つひとつが、かつて幾度となく体験した、ある出来事を思い出させる。
ベル(……また、魔力切れを起こしたのかもしれない)
ベルは自分の胸元にそっと手をあて、ゆるやかに呼吸を整える。
死神の揺り籠。
あの不可侵の殻が発動するのは、いつもベルの魔力が極限まで消耗したときだ。
すべての干渉を拒み、眠るように閉ざされる静寂の殻。
そして、あの殻から目覚めたときに訪れるのが、曖昧な意識と長い眠気。
ベル(……だから、今もこうして頭がぼんやりしてるのは……きっと、いつものこと)
ベルはそう自分に言い聞かせるように小さくうなずく。
すぐに答えが出ない思考も、部屋の外に出ることにためらいを覚えるのも、全てその影響。
そう納得すれば、何かが噛み合わないように思える違和感も、わずかに遠ざかる気がした。
この部屋に満ちる清らかな風は、どこまでも優しく、心地よい。
けれどそれは、彼女の思考と感情を、まるで深い眠りのなかへと誘っているかのようでもあった。
その日の昼頃。
軽やかな足音と共に、エラヴィアは銀の盆を手にベルの部屋を訪れた。
盆の上には、色とりどりの温かな料理が並び、香り立つ湯気が小さく揺れている。
清浄な風がカーテンを揺らすなか、エラヴィアは微笑みながら扉をくぐった。
ベル「この塔の主様に給仕をさせるなんて……このギルドのみんなに怒られてしまいそうね」
そんな冗談めいた言葉に、ベルはふっと微笑んだ。
普段はその表情に影を落としがちな少女が、今だけは柔らかな光を宿していた。
エラヴィア「ふふ……あら、私にも年長者を敬う気持ちはあるのよ?」
エラヴィアの軽口に、二人はくすくすと笑い合う。
その一瞬が、どれほど尊く、儚いものか――エラヴィアには痛いほどわかっていた。
ベルと出会ってから、幾世紀もの時が過ぎていた。
エルフのなかでも特に長命な血を持つエラヴィアでさえ、その時の流れを確かに感じていた。
肩に、瞳の奥に、静かに降り積もるような歳月の重み。
けれどベルは、あの頃のまま。
時を止めたように、何一つ変わらない少女の姿のまま、そこにいる。
エラヴィア(このままでは、いつかベルを一人残して、私は……)
心の奥で、名もなき不安が静かに疼いた。
遠い未来の、けれど確実に訪れる「終わり」。
それは誰にも避けられない定めであり、だからこそ恐ろしく、哀しい。
エラヴィア(もしも、ベルを“普通の少女”に戻すことができるなら)
そうすれば、あの子もまた、時の流れのなかで誰かと出会い、別れ、歳を重ね、そして終わりを迎えることができるのかもしれない。
それは哀しみでもある。けれど、決して不幸ではない。
それこそが、“命”というものの在り方なのだから。
ベル「エラヴィア……?」
ベルの声が、思索の渦からエラヴィアを引き戻す。
その無垢な瞳に映る光は、真っすぐに、何の曇りもなく彼女を見つめていた。
エラヴィア「……あなたがあまりに綺麗だから、見惚れてしまったわ」
エラヴィアは小さく微笑みながら、そう答える。
ベル「年長者をからかうなんて」
そう返して笑うベルの笑顔は、どこまでも穏やかだった。
彼女はそのまま、エラヴィアが運んできた銀の盆に目を落とす。
ベル「……ミィナが焼いてくれたパンは、本当にどれも美味しかったわね」
ふと、思い出したかのように呟いたベル。
だが、その瞬間。
彼女の表情がわずかに揺れる。
薄く、細く、だが確かに生まれた皺のような違和感が、彼女の記憶をかすめる。
ベル「ミ……ィナ……? あれ? 私……」
自分でも掴みきれない“何か”を辿ろうと、ラベンダー色の瞳が宙を彷徨う。
エラヴィア「そうね、ベル。早くミィナに会うためにも、調子を戻さなくては」
エラヴィアが優しく微笑み、そっとベルの額に手を当てた。
その手のひらから伝わる風の魔力は、冷たくも柔らかく、ベルの意識に薄い霞をかけていく。
ベルの目が静かに閉じ、そして再び開かれたとき、その揺らぎは消え、瞳は元の、穏やかなラベンダー色を取り戻していた。