4-14
血のように紅く染まった月が、夜空に妖しく輝いていた。
現世に浮かぶその紅い月を、ルクシアは掌に乗せた宝石でも愛でるかのように、静かに見下ろしている。
神々にとって、現世との繋がりはそれを信じる者たちの数、そして信の深さに比例する。
救いを求める祈り。
与えられた慈悲への感謝。
そして時に、恐れすらも、その全てが神の力となる。
最も古き神のひとり、光と救済の女神ルクシア。
彼女の名は、世界中に知られ、多くの教会がその名を掲げている。
だが、それほどの力を持つ彼女でさえ、特定の者に直接語りかけ、意思を侵すにはいくつもの制約があった。
特に、千年の知を讃えられる賢者、風の魔術師エラヴィア。
その魔力は整い過ぎていて、神や精霊の声を通しやすいが、それはあくまでも、本人が「求めた場合」に限られる。
ルクシアの信徒ではない彼女に届く声は、今なお、微かに揺らぐ程度だった。
けれど、今宵は特別な夜。
ルクシア「いい夜ね」
月明かりに照らされるルクシアの微笑は、天の光に溶けるように穏やかで、同時に底知れぬ意志の影を孕んでいた。
彼女の指先が、空に浮かぶ紅い月へと、そっと伸ばされる。
それは、神が地上へ手を差し伸べる、最初の合図だった。
ルクシアは水面に浮かぶ花びらをすくい取るように、そっと、あくまで優しく、慎ましやかに。
エラヴィアの意識を己のもとへと誘い出す。
不死の少女と近しく、深い信頼関係を築いている者。
そして、死神の祝福に密かな疑念を抱いている者。
その存在は、ルクシアにとってこれ以上ないほど都合のよい器だった。
静かに触れたエラヴィアの魂。
その奥底に潜む、ある“痕跡”に、ルクシアは気づく。
懐かしい、深く、暗い闇のにおい。
ルクシア「……ルーヴェリスの爪痕?」
琥珀の瞳を細めたルクシアは、指先でなぞるようにその残響をたどる。
エラヴィアの記憶と混じり合った“死神”の意志。
かつて、少女を救うために封印の狭間から放たれたその爪は、確かにこの賢者を通じて現世に届いていた。
本来であれば、現世と断絶されるはずのルーヴェリス。
そんな彼が、魂の軋みを代償にしてまで起こした一手。
ルクシア(そこまでして守りたかったのね……ベルを)
ルクシアの唇が、ゆるやかに歪む。
静かに、けれど底知れぬ愉悦を含んだ笑みが浮かぶ。
ルクシア(そんなにまで想い守ろうとした存在を、私が奪ったら。
その時、ルーヴェリスは、どんな顔をするのかしら)
その想像だけで、胸が躍る。
喜びに震えるような表情で、ルクシアはひとつ、ゆっくりと楽しげに笑った。
ルクシアの声は静かに、優しく、まるで母が子を諭すように、エラヴィアの心に染み入った。
けれど、その優しさの底には、決して揺らがぬ厳格さが潜んでいた。彼女の言葉は穏やかであっても、その「正しさ」だけは決して譲られない。
彼女は断言する。
不死の祝福は、祝福ではない。それは“穢れ”であると。
輪廻の流れを断ち切り、魂を永遠の牢獄に閉じ込め、死という救済すら遠ざける呪い。
それは神の理に背き、存在の在り方そのものを歪ませるものだと。
ルクシアにとって、それを「解き放つ」ことこそが真なる慈悲、そして神の救いの本質だった。
誰かが決して触れられなかったその領域に、そっと手を伸ばすためには、清らかな心が必要だった。
だからこそ、エラヴィアだった。
彼女の魔力の波は澄みきっており、祈りのような想いの残響が胸の奥で揺れていた。
そのわずかな迷いと願いを、ルクシアは見逃さなかった。
そしてそこへ、まるで光が差し込むように、彼女の囁きが落ちる。
ルクシア「……祈りなさい。私が手を差し伸べましょう」
その声は柔らかく、あたたかく、救いを約束するようなものだった。
だがその「救済」は、あくまでもルクシア自身の理によって定められたもの。
彼女の慈悲は、否定を許さない。
それは静かに、しかし確かに、思考を支配していく。
「穢れから救う」という名目のもとで、彼女は死神の愛し子を奪おうとしている。
すべては「神の正しさ」と「絶対の慈悲」の名において。
そして揺らぎはじめていたエラヴィアの心に、ルクシアの光が静かに差し込む。
それはまるで、裂け目を探して忍び寄る水のように、静かで、不可逆の侵食だった。
エラヴィアの精神をそっと現世へと還したあとも、ルクシアはその場に留まり、静かに目を閉じた。
その顔に浮かんだ微笑は、慈しみに満ちたもの――けれど、それは彼女自身の未来を見据える者の表情だった。
彼女は知っている。
種は蒔かれた。
あとは静かに、確実に芽吹くのを待つだけ。
ルクシア「ええ、もうすぐ。私の“救済”が、形になるわ」
柔らかく唇を綻ばせ、ルクシアは静かに天を仰いだ。
空にはまだ、紅く染まった月が浮かんでいる。
その光の下、神は微笑む。
すべてが正しい未来へ向かっていると.疑いもなく信じながら。