4-12
各地に点在する〈光と救済の神・ルクシア〉の教会。
そのひとつへ、今日もひとりの修道者が足を踏み入れた。
白く質素な外套に身を包み、穏やかな微笑みをたたえた人物。
その瞳には、静謐な慈しみが宿る。
彼の名はセラフ。
民の祈りに耳を傾け、病を癒し、希望の言葉を贈るその姿は、まさに聖なる巡礼者。
だが、そのすべての行いは“与える”ためでありながら、同時に“受け取る”ためでもあった。
信仰の力。祈り、感謝、敬愛。
それらはセラフの魂を満たし、静かに、確実に、彼の内に力として積もってゆく。
民が崇めるその笑顔の裏に、乾いた空洞が潜んでいることに、誰も気づかない。
かつて、セラフは〈聖騎士団〉に所属する誇り高き戦士だった。
だが、ある時ベルに出会ってしまった彼は、己の意志でその座を捨て、《黒き観測者》へと身を投じた。
与えられた任務の名のもとに、多くの命を奪った。
否、それ以上に――彼は、ベルの痕跡を追い、彼女に繋がる者を“意図的に”刈り取っていった。
彼女を誰よりも深く知りたい。
彼女を知る他者など、存在してはならない。
それは愛にも似た、だが愛すら凌駕する、狂おしい独占欲だった。
そして、その彼にルクシアは囁いた。
ルクシア「奪ってきた命よりも多くを救いなさい。それが、あなたの赦しとなるでしょう」
その言葉は、まるで神が彼の狂気をも“愛”と認めたように響いた。
彼は赦されている。
この祈りの道の果てに、ベルが待っていると信じて疑わなかった。
“奪うことでしか得られなかった理解”を、
今、彼は“与えることで得よう”としている。
その先にいるのは、ただひとり。ベル。
彼女への想いだけが、セラフの信仰を支えていた。
やがて、セラフは夢を見るようになった。
最初は曖昧で掴みどころのない光景だったが、それがただの夢ではないと彼はすぐに悟る。
それはまるで、もうひとつの現実。
優しい風が吹き抜け、柔らかな光に満ちた、あまりにも美しい世界。
そこに、女神は立っていた。
黄金の髪を揺らし、まばゆい光をその身に纏う光と救済の神・ルクシア。
彼女は微笑みながら、ゆっくりと語りかける。
ルクシア「あなたの愛は、美しいものよ。
深く、激しく、狂おしいほどに。……それを、恥じてはなりません」
セラフは、思わず膝をついた。
その手は、女神の衣にすがるように震え、自らの罪を口にする。
ベルを、呪いの糸で縛ったこと。
魔力を封じ、夢も、感情も、命さえも、自分のものとして縫い合わせたこと。
そして、何度も、彼女を壊したこと。
けれど、そのすべてを捧げてもなお、彼女は手に入らなかった。
それが、セラフにとって唯一の真実だった。
ルクシアは、ただ静かに微笑みながら、その懺悔を受け入れる。
ルクシア「それほどまでに想われることは、幸福なのです。
魂を縛るほど求められる――それは、何よりも深い愛。
あなたは、愛するに値する者。……セラフ。あなたの想いは、誰よりも純粋です」
その言葉は、甘く、深く、彼の胸の奥底に染み込んでいった。
そのやさしさには、どこか歪さがあった。
静けさのなかに潜む、狂気のような甘美さ。
セラフはその違和感に気づきながらも、目を閉じる。
そして、ただ受け入れた。
信仰の道を歩む日々のなかで、セラフは確かに感じた。
あの、狂おしいほどに渇望した気配。
ベルが、この世界に戻ってきた。
かつて結び上げた“絆”、幾百もの魂の糸。
その多くは、時間の風に削られたのか、あるいは何者かの手によって解かれていた。
だが、いくつかの糸は今もなお残っていた。
赤く黒く染まった、しつこいまでに執着の込められた数本の糸だけは。
それはまるで、世界そのものに織り込まれた宿命のようだった。
セラフはそれを“運命の糸”と信じた。
そして、その糸の先に、ベルの気配があると確信するたび、
胸の内が焼けるような熱に満たされる。
夢のなかで、彼は糸を通じてベルに触れた。
記憶の底に沈んでいた彼の名が、感情の断片が、少しずつ蘇っていく。
ベルが自分を思い出す。
それだけで、甘い吐息が喉の奥から漏れ、全身が歓喜に震える。
その静かな狂気こそが、セラフの信仰の証だった。
だが、ある時を境にベルの気配が、ふいに掻き消えた。
まるで、霧の奥に姿を潜めたように。
存在そのものは感じられる。けれど、“どこにあるのか”だけが、決して掴めない。
消えたのではない。
それは、何かに包まれ、塗り潰されたような感覚だった。
光に影を落とされたように、確かにそこにあるのに輪郭が見えない。
それでも、セラフは取り乱さなかった。
むしろその瞳には、確かな確信が灯っていた。
――やがて、また会える。
祈りを欠かさず、日々を救済の行いで満たしていれば、
赤と黒で結ばれた“運命の糸”は、ふたりを再び導いてくれると。
それは、信仰という名の確信。
祝福された縁の宿命。
けれどそれは、あまりにも唐突だった。
セラフは、説明のつかない違和感に襲われる。
胸の奥に、ぽっかりと空いた穴。
それはただの不安ではなく、確かに存在していたものが、音もなく崩れ去る“喪失”の感覚だった。
ベルとの繋がりが、ほどけていく。
心に触れていたはずの、赤黒い糸。
幾重にも結び直したはずの運命の糸が、
まるで誰かの手によって、一つずつ静かに解かれてていく。
セラフ「……やめろ」
掠れた声が、唇から漏れる。
セラフは無意識に頭を抱え、整えていた髪を掻き乱した。
目には見えないはずのその糸を、
本当にそこにあるかのように両手を伸ばして掴もうとする。
だが、掴めない。
指の隙間から、何か大切なものがすり抜けていく。
セラフ「やめてくれ……!」
その声は震えていた。
すがるような叫びが、空虚に響く。
そのときだった。
まるで天から降るように、声が彼のもとへと響いた。
ルクシア「……セラフ」
どこまでも優しく、温かな声音。
けれどその響きには、抗うことのできない力が宿っていた。
ルクシア「あなたの愛が途切れそうなことに、私は深く心を痛めています。けれど、まだ終わってはいないわ」
セラフの胸が、どくん、と音を立てた。