4-11
エラヴィアの部屋へと至る通路に人の気配はなく、
部屋の前にも誰一人、立ち話をする姿さえ見当たらない。
静かすぎるその様子に、ベルはかすかな違和感を覚える。
エラヴィア「どうぞ、ベル」
エラヴィアに促され、応客用のソファに腰を下ろす。
その対面には、変わらぬ穏やかさをまといながらも、どこか翳りのあるエラヴィアの姿。
ティーカップが卓上に置かれ、香り立つハーブが空間を優しく満たしていく。
エラヴィア「ここに来るのは、久しぶりね」
ベル「ええ。……けれど、変わっていないわ。エラヴィアの空気が、ずっとここにある」
そんな他愛もない言葉を交わしながら、
それでもベルの心には、さざ波のような不穏が広がっていく。
エラヴィアの瞳は、笑っているのに笑っていない。
張りつめた光を宿しながら、どこか遠くを見ているようだった。
ベルがそっと言葉を切り出そうとしたその瞬間。
エラヴィア「ベル」
先に、エラヴィアが口を開いた。
その声は穏やかで、けれど芯のある響きを帯びていた。
エラヴィア「……私は、あなたのことを、本当に大切な友人だと思っているの」
ソファ越しに向けられた声は、静かで優しかった。
けれどその瞳には、凪のような穏やかさの奥に、確かに揺れる光があった。
エラヴィア「あなたが何度も傷つけられてきたことを、私は知ってる。
死神の祝福、呪いの糸、数えきれないほどの痛みと孤独。
それを選んだわけじゃないのに……ずっと、背負わされてきた」
言葉を選ぶように、そっとティーカップを置くエラヴィア。
その手はほんのわずかに震えていた。
エラヴィア「怒りを感じるの。あなたをそうさせたものすべてに。
同時に、悲しくてたまらない。あなたが、それでも微笑もうとすることが……」
ベルは黙って聞いていた。
友としての言葉だ。深い共感と、やさしさに満ちた響き。
けれど、どこかに微かな違和感があった。
エラヴィア「だから、私はあなたを……解放してあげたいの。
死神の祝福からも、呪いの糸からも、過去のすべてからも」
エラヴィアは真っ直ぐにベルを見つめた。
その視線に、偽りはない。
だからこそ、ベルは戸惑った。
その“真っ直ぐさ”が、あまりに整いすぎていて、
どこか“整えられた感情”にさえ感じられた。
まるでそれは
「ベルを思う」ことが、何か別の大きな意志と結びついているような、そんな印象。
エラヴィアは静かに立ち上がる。
その所作は、魔法ギルドの長としての威厳と品格を湛えていたが、ベルにとってはよく知るエラヴィアとは別の存在のように感じた。
エラヴィア「……ついてきてくれる?」
エラヴィアはそう告げると、執務室の奥へと繋がる扉の前に立つ。
その指先に風が集まり、そっと魔力が纏う。
扉が静かに開かれた瞬間。
ふわりと風が流れ込む。
清涼で、心を撫でるような魔力。
だがその風の中には、確かに何かが編まれていた。
柔らかく、肌を撫でるようでいて、逃げ場を与えない。
見えない鎖。
それが“鎖”だと気づいたのは、ベルの直感だった。
ベル「……これ、は……?」
エラヴィア「怖がらないで、ベル。
これはあなたを縛るものじゃない。
あなたを――守るためのものよ」
エラヴィアが歩み寄る。
その手には、見覚えのある短剣が握られていた。
隠れ家に置いてきたはずの、ベルの護身用の剣。
ベル「……どうして、これを……」
エラヴィア「あなたのこの剣を媒介にすれば、あなたに届く魔法を組めると思ったの」
その声は穏やかで、深く静かな愛情さえ感じさせた。
だからこそ、ベルは動けなかった。
エラヴィアはベルの手に短剣を握らせ、そのまま自分の手を取る。
そして、その手のひらを刃でゆっくりと切った。
赤がにじみ、やがてぽたりと床に一滴。
ベルが目を見開いたその瞬間、エラヴィアはその血のついた手で、そっとベルの頬に触れる。
エラヴィア「ごめんなさい。でも、これは儀式なの。
あなたを縛る呪いの糸を断つための、私の誓い」
その囁きは、まるで祈りのようだった。
ベルは言葉を失ったまま見つめる。
そして次の瞬間、エラヴィアはベルの手のひらを短剣で傷つけた。
同じように、赤がにじむ。
ベル「……何を、して……」
「あなたを解放するため……ベル、それまでこの塔で、私のそばにいて。
ここが、何よりも何処よりも――安全なの」
エラヴィアはそっと、ベルの血に濡れた手を取る。
そして、自らの傷口に重ねるように、その手を重ね合わせた。
エラヴィア「信じて、ベル。私は、あなたの味方だから」
声は優しく、迷いのない響きを帯びていた。
重なった手のひら。
そこから滲み出すふたつの魔力は、まるで風と光が混ざり合うように、柔らかく空間に広がっていく。
それに呼応するように、部屋を包む風の結界がわずかに震えた。
静かに、しかし確かに、ベルのまわりに“何か”が編まれてゆく。
ベルの瞳が、ゆっくりと閉じられる。
その意識の奥底で、彼女は感じていた。
この気配は、たしかにエラヴィアのものだ。
昔から、ずっとそばにいてくれた優しい風。
けれどその風が、今、どこへ向かおうとしているのか。
その行き先までは、わからなかった。