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風が編んだ転移の陣が静かに収束する。
ベルは一歩、硬い石床の上に降り立った。
視界に広がるのは魔法ギルドの塔。
天井近くまで伸びる螺旋状の通路に、風の魔力が帯のように漂い、塔全体を静かに循環している。
空気は澄んでいた。
けれど、その清らかさとは裏腹に、ベルの胸の奥にはかすかな緊張が芽吹いていた。
ベル「ありがとう、エラヴィア」
エラヴィア「ええ、久しぶりに……塔に戻ってきてくれて、嬉しいわ」
微笑みながらそう応えるエラヴィアの声音は穏やかだが、その瞳には影が差しているように見えた。
送り出してくれたミィナの明るい笑顔が、今はどこか遠いものに思える。
その対比がベルの中に、静かな影を落としていた。
エラヴィアの表情に見え隠れする緊張は、単に“呪いの糸”のことだけではないとベルは感じ取る。
かつて、塔を訪れた際に巻き起こった議会からの干渉、そしてベルの身を狙う者たちの存在。
塔の存在が大きくなればなるほど、エラヴィアもまた、その立場に重責を抱えてきた。
ベルを(今も何か、抱えてる……ギルドの長としての、別の懸念)
そして、記憶の奥底が静かに揺れた。
まだこの街が“風の街”と呼ばれる前。
小さな町だったエルセリオに、魔法ギルドが根を下ろしたあの頃。
魔術を学びたいと願う者たちが集まり、知を求める渦が徐々に広がっていく。
それに呼応するかのように、町もまた発展を遂げ、今では空を貫くようにそびえる「風の塔」がその中心に立っている。
風の塔。
魔法ギルドの本拠であり、魔術師たちの窓口。
教え合い、支え合い、共に魔法を高めていく場所。
それがまだ出来たばかりの頃、ベルはしばらくその塔に滞在していた。
今でこそ精緻に整えられた組織も、当時は未熟で、秩序より混沌が勝っていた。
塔の管理も、魔法の体系も、すべてはエラヴィアの知識と判断に依存していた時期だった。
魔術師たちの思惑は入り混じり、一枚岩とは程遠い。
“蒼風の守り手”のような実戦部隊もまだ組織されておらず、対処に追われる日々。
エラヴィアは幾度となく疲弊し、それでも誰よりも前に立ち、塔と人を導いていた。
その隣にいたのが、ベルだった。
街の周囲に現れる魔物を討ち、塔の防衛に当たる。
そして、何よりも友として、エラヴィアの傍に寄り添い、支え続けた。
それは、確かに幸福な記憶だった。
淡く、それでいて色濃い記憶が、今、静かに胸の奥で灯る。
けれど、あの頃とは違う。
今の塔は成長し、組織としての体裁を備え、数多の魔術師たちが肩を並べる場となった。
そして同時に、力と知識、責任と立場、信頼と疑念。
あらゆるものが複雑に絡み合い、互いを縛る場所にもなった。
ベルはふと、目を細める。
魔法ギルドの塔の奥。
そこに今も変わらず残されている、ベルの私室。
あの部屋だけは、エラヴィアが手を加えず、かつてのままにしてくれていた。
長い時を旅し、幾多の国と季節を渡ってきたベルにとって、
「帰る場所」と呼べるようなものはほとんどない。
けれどこの私室だけは、過ぎ去った時間を静かに留めてくれる、数少ない安らぎだった。
けれど今日は、その扉を開くことはしなかった。
ベルは私室の前を通り過ぎ、塔の最上階へと足を運ぶ。
目指すはエラヴィアの執務室。
この塔の心臓部であり、魔法ギルドの中枢でもある場所。
ベルの魔力は異質だ。
生と死の境を越えた彼女の存在は、周囲の魔力の流れに微かな波を生む。
特にここ、魔術師たちが集い、魔力に敏感な者が多く在籍するこの塔においては、その違和感は顕著に現れる。
今や、ベルがこの塔にかつて滞在していたことを知る者はごくわずか。
時は流れ、人は入れ替わり、記憶は薄れていく。
だからこそ、塔内を静かに通されることも、他の魔術師たちとの接触を避けるように最上階へと導かれたことも、
配慮なのだと、ベルは理解していた。
エラヴィアが開いた扉を彼女に続いて通り抜ける。
かつてと同じ風が、室内の帳を揺らしていた。
塔の最上階にあるエラヴィアの執務室は、決して閉ざされた特別な空間ではない。
風の街エルセリオの、魔法ギルドの中枢でありながら、その扉はいつでも開かれていた。
幼い魔術師が魔法に関する素朴な質問を抱えて訪れることもあれば、旅から戻った魔術師が珍しい花を手土産に笑顔で報告に来ることもある。
そのすべてを、エラヴィアは柔らかな微笑で迎えてきた。
この部屋には彼女のそうした人柄がそのまま息づいており、光と風のように穏やかな時間が流れる場所だった。
だが、今日の空気はどこか違っていた。