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4-9

エラヴィアは執務室の扉を閉じたあと、しばらくその場から動けなかった。

背中を支える重厚な椅子に身を沈めると、内に渦巻く感情が胸の奥をゆっくりと満たしていくのを感じた。



ベルがミィナと共に旅立つ。



その言葉が、鼓膜に残る残響のように何度も繰り返される。


確かに、嬉しいことのはずだった。

旅を選べるほどに回復し、前を向いて歩こうとしている。

それは背中を押すべきことだった。それは本来ならば。


けれど、心の奥底で膨らんでいくこのざわめきは、何だろう。

苦しみでも、哀しみでもない。

エラヴィアの胸を締めつけるのは、淡く、けれど確かに疼く感情だった。



再び彼女の手の届かない場所へ、あの淡い紫の髪が遠ざかっていく。

遠い記憶の中の旅路では、互いの背中を守り合い、傷を癒し、沈黙すらも分け合えた。

それが今では自分ではない誰かと肩を並べ、知らない景色を見ようとしている。



エラヴィア(違う……これは、執着なんかじゃない)



否定するように目を伏せ、唇を結ぶ。

けれど、否定すればするほど、その思いは輪郭を持ち始める。


ベルは不死でありながら、あまりに儚い。

ほんのわずかな綻びからでも、何者かに絡めとられてしまいそうな、危うさを孕んでいる。

セラフの呪いも、死神の祝福も、ベルを縛る鎖だ。

その鎖がある限り、彼女は真に自由ではない。



それを防ぎ、ベルを解放するためには、自分のそばに置いておくのが最も安全で確実だ。

塔の中であれば、結界もある。監視もできる。余計な影の手も届かない。



エラヴィア「私は……私が正しい選択をしているのよ……」



机の上に置かれたグラスが、かすかに震えていた。

魔力が揺れている。

普段は決して乱れることのない風の律動が、彼女の魔力の核と共鳴して、微かな軋みを立てていた。



その音にエラヴィアは気づかないふりをした。



感情に身を任せてはならない。

自分は魔法ギルドの長であり、理知と責任の象徴でなければならない。


それが、エラヴィアの信じてきた在り方だった。

個を捨て、大局を見据え、誰かの感情に流されることなく“正しさ”を選ぶこと。

それが、彼女がここまで辿り着くために手放してきた多くのものの代償だった。


けれど今、心の奥で微かに囁く声がある。

静かに、しかし確実に彼女の芯を侵していく声。



(手放さないで。もう二度と、あの子を遠くへやってはだめ)



まるで風に紛れるような、低く、柔らかな囁き。

その声が、自身の心から生まれたものなのか、それとも何か別の、より得体の知れぬものからの影響なのか。

今のエラヴィアには判断がつかなかった。



それでも確かに、心は揺れていた。



ノクス。

死神にカイルと言う名を預け、世界から自分の存在を無くした、彼女の教え子。

特出した才能があるとは言えないが、研究熱心で真面目、何より“他者の痛み”を自分のもののように感じられる青年だった。


彼がベルを救ってくれたのは、紛れもなくエラヴィアの願いに応えた結果だった。

だからこそ、彼の身を案じる気持ちもまた、嘘ではない。



だが――



エラヴィア(……あれは、本当に“救い”だったの?)


死神の揺り籠に囚われ、深淵のような静寂の中で死神と出会った彼が、その後に語った言葉。

冷たさと熱が同居するような、その瞳の揺らぎ。


あれは、ベルを救った者の眼差しではなかった。

むしろ彼自身が、死神の呪縛に囚われはじめているように見えた。


そして、ひとつの確信が、心の底に静かに沈み始める。



エラヴィア(ベルとノクスを会わせてはいけない)



それが根拠のない勘であっても、拭えない直感だった。

ふたりが再び交われば、何かが取り返しのつかないかたちで“変質”してしまう。

その未来が、どうしようもなく恐ろしく思えた。


この感情は、理にかなったものではない。

それは分かっている。

それでも。

その恐れは、彼女を動かすには、あまりにも強く、鋭く、深く刻み込まれていた。


エラヴィアはゆっくりと机から立ち上がると、執務室の奥、封印された魔導具と古文書の棚へと向かった。指先に宿した風の魔力が鍵の紋をなぞると、静かに重い扉が開く。



エラヴィアはある出来事を思い出していた。

ベルが、エラヴィアを救うために使った、あの「死神の結界」。


黒き観測者の魔に浸食されかけたとき、ベルは迷わずあの力を使って自分を庇った。その時に生まれた、全ての干渉を拒絶するような、死神の祝福に由来する結界。

あの時感じた、息が詰まるほどの静寂と、完全な孤独。

そして確かに、守られていたという感覚。



エラヴィアはその記憶を、ゆっくりと掌に浮かべるように思い返す。

そして自分がこれから行うことも、守るためなのだと、強く自分に言い聞かせる。



エラヴィア(これは束縛ではない。あの子を、“死神の呪縛”と“セラフの呪い糸”から解放するための手段……)



しかし、わかっている。ベルには通常の精神魔法も、封印の結界すら意味を成さない。

彼女は「存在を喪失させる魔法」の力を内包しており、あらゆる魔法の構造をすり抜けてしまう。



けれど、

エラヴィア「心の扉だけは、例外になるかもしれない」



エラヴィアは静かに目を

“信頼”という名の感情。それが魔力の媒介となる特殊な精神系魔術。

かつて存在した“誓いの術式”。



その術式は、相手の心に干渉するのではなく、「相手が自ら心を開いた時にのみ成立する」非常に繊細な魔法だった。

そして今のベルは、エラヴィアを信じている。

友として、仲間として、家族のように。



その信頼を利用することに、一瞬だけ罪悪感が胸を過ぎった。

だがそれ以上に、胸を満たすのは焦燥と、決意。

エラヴィアは魔法陣の中心に、隠れ家からそっと持ち出してきた一本の短剣を置いた。


それは、ベルがいつも身に着けていた護身用の小さな剣。

魔力で顕現させる魔法剣を自在に扱える彼女にとって、本来なら必要のないはずの武具だった。


黒鉄で鍛えられたその刃は、光の加減で柔らかく銀色に輝く。

装飾もなく、鞘も簡素な作り。

それでもその剣は、ベルにとっては過去との繋がりを象徴する、大切なお守りのような存在だった。


かつて共に旅をしていた頃、焚火の傍でエラヴィアに語った言葉を思い出す。



ベル「昔の自分を忘れないために持ってるの。私を“普通の人間”だった頃に繋ぎとめてくれるような気がして」



その剣が今、信頼の象徴であるその想いが、エラヴィアの描く術式において、少女の自由を縛るための「鍵」となる。



風の魔力が静かに舞い上がり、部屋の空気が微かに震える。



淡く発光する細い糸が、結界の構造を描きながら空間に浮かび上がっていく。まるで織物のように繊細なその光は、見る者の心を惑わせるほどの美しさを帯びていた。



エラヴィア「……ごめんなさい。けれど、これが最善なの」



その呟きは、誰にも届かない。



ただ、己の内に潜む弱さと矛盾。

揺れる母性と責務のはざまで苦しむ自分自身を、そっとなだめるための、祈りにも似た言葉だった。

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