4-8
明くる日の、日差しが傾きはじめた夏の訪れを告げる午後。
本来ならば蒸し暑さが肌を包むはずの季節。
けれどこの隠れ家に流れる空気は、どこまでも穏やかで涼やかだった。
それは、エラヴィアの魔力によって調えられた風の結界。
熱気も湿気も拒むその加減は、まるで外界から大切な何かを守るために編まれた繭のようだった。
それは快適であるがゆえに、どこか閉ざされた優しさが滲んでいた。
ベル「まるでここだけ、季節が来ないみたいね」
ベルが呟くように言ったのは偶然ではないのかもしれない。
そんな穏やかな空気の中で、ベルとミィナは荷をまとめながら、旅の話を交わしていた。
そこへ、久しぶりにエラヴィアが姿を現す。
エラヴィア「ふたりとも……楽しそうね」
その声音には柔らかさと、僅かな翳りが混ざっていた。
ベル「ええ、そろそろ出発しようかと思っていて」
ベルが答えると、すぐにミィナも笑顔を見せる。
ミィナ「うん、ミィナも一緒にね!」
エラヴィアはその言葉に、ほんの一瞬だけ目を伏せた。
ミィナ「エラヴィアはベルとノクスを見守るためにこの隠れ家を用意したんだもん。
もう“管理人ミィナ”の役目はおしまいだよね」
ミィナの言葉に、エラヴィアは優しく微笑んでみせたが、その笑みの奥には何かが滲んでいた。
エラヴィア「そんなこと……いつまでも、ここにいてくれて構わないのよ」
ミィナ「ありがとう。でも決めたの。ミィナもノクスに会いに行きたいの」
ベルはミィナの言葉に頷きながら続ける。
ベル「私も、ミィナが来てくれるのは心強いわ」
だがその瞬間、エラヴィアの瞳にかすかな陰が射す。
エラヴィア「ベル。出発する前に、一度、私の塔に来てくれないかしら。呪いの糸についてどうしても、気になるの」
エラヴィアの声は、柔らかく、いつも通り丁寧だった。
その語調は穏やかで、まるで何気ないお願いのように聞こえる。
けれど耳を澄ますと、その奥にかすかに緊張が混じっていた。糸のように細く、張りつめたものが。
エラヴィア「明日、また迎えに来るわね」
彼女はそれだけを残して、ゆるやかに踵を返した。
外の光が差し込む扉の先に姿を消すその後ろ姿は、どこまでも静かだった。
風に揺れる淡い衣が、すっと空気を裂いていく。
扉が閉じる音は、やけに軽く、ひどく静かだった。
数秒の沈黙ののち、空気の流れがわずかに揺れる。
空間に残された、細やかな魔力の残滓――転移魔法を使った痕跡だ。
ただの帰還。
そう言ってしまえばそれまでだが、なにかが違っていた。
あの静けさには、余韻がなかった。
まるで、心のどこかに結論を置いた人間が、それを他人に悟らせまいとするような。
そんな無音だった。
ミィナ「……あれ? エラヴィア、もう帰っちゃったの?」
ミィナが振り返りながら、少し困ったように呟く。
手に持った盆には、白い陶器のカップが三つ。
まだ湯気の立つハーブティーが並び、その香りが部屋の中にほんのりと漂っている。
ミィナ「せっかくベルと一緒に摘んだハーブでお茶を淹れたのに……」
ミィナの肩が少し落ちる。
ベルは彼女に微笑みを向けた。けれど、その表情にはわずかな影が差していた。
エラヴィアの声は確かに優しかった。けれど、目に宿った光は淡く、どこか距離があった。
それは心配や懸念ではない、もっと別の感情。
その奥にあるものが、ベルの中に引っかかっていた。
まるで、いまここで何かが変わろうとしている。
その予感が、胸の奥に冷たい感触を残していた。