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魔法ギルドの塔を包む結界が、わずかに揺らいだ。
その一瞬、魔法ギルド内の術者たちは、まるで同時に息を呑んだように動きを止めた。
空気が張り詰め、誰かが呟く。
「……この魔力は、間違いない。彼が、帰ってきた」
静寂を切り裂くように、重厚な扉が音もなく開かれる。
吹き込んだ風が帳を揺らし、冷気が空間を撫でるように流れた。
淡い氷の気配をまとい、長衣を翻して現れたのは――
魔法ギルド直属にして、エラヴィアの名の下に活動する精鋭戦闘組織《蒼風の守り手》の筆頭、ナヴィ。
その姿を目にした瞬間、空気が一変する。
冷気にも似た威圧と、研ぎ澄まされた魔力の波動が空間を満たし、誰もが言葉を失った。
彼は重傷を負い、長らく療養していたはずだった。
だが、そこに立つナヴィからは、衰えや傷の名残は微塵も感じられない。
むしろその魔力は、以前よりも遥かに冴え渡っている。
まるで、傷さえも力に変えて戻ってきたかのように。
ナヴィが一歩、静かに前へ踏み出す。
その足元に清涼な風が一筋流れ、空気が震えるように揺らめいた。
そして、その風の中に現れたのは、塔の主。
澄んだ銀の髪と深い神秘を宿した瞳を持つ、風の賢者エラヴィア・セリスフィア。
その姿を目にした瞬間、ナヴィは膝を折り、ひと際深く頭を垂れる。
その動きには、主への揺るがぬ忠誠と、深い敬意が込められていた。
エラヴィア「おかえりなさい、ナヴィ。……待っていたわ」
静かに、それでいてどこか安堵を帯びた声が、塔に満ちる。
エラヴィアの言葉は、戦いを終えて戻った騎士を迎える女王のように、柔らかく、温かかった。
ナヴィは伏せたままの姿勢で、低く、しかし澄んだ声で応える。
ナヴィ「ただいま戻りました、エラヴィア様。
御身のもとへ、再び仕えられること……この身に余る光栄です」
その言葉には、主への忠誠だけでなく、癒えぬ過去と再起への覚悟が込められていた。
療養の間も、ナヴィはエラヴィアと顔を合わせていた。
だが、こうして改めてギルドの塔という魔術師たちが行き交い、幾重もの結界と術式が張り巡らされた聖域で、ギルド長としての姿のエラヴィアと向き合うと、自然と背筋が伸びる。
澄んだ空気の中に漂う風の魔力は、エラヴィアの存在そのものを映し出すように塔全体に満ちていた。
その中心に立つ彼女の眼差しは、変わらず静謐で鋭く、魔導を極めた者の威厳を宿していたが、ナヴィの鋭敏な感覚は、その奥底に微かな疲弊と翳りを読み取っていた。
エラヴィア「……これからのことについて話したいの。私の部屋へ」
その言葉に、ナヴィはひとつ頷き、無言のまま彼女の後に続く。
ギルドの塔は、風の魔力が螺旋を描くように流れる構造になっている。
その流れに意識を委ねることで、階層を越え、扉すら通らずに内部を移動することができる。
ただし、その力に導かれるには、この塔に認められこと、すなわち、エラヴィアからの許可が必要だ。
エラヴィアがその“鍵”の象徴であるかのように、彼女が一歩進むたび、風がひとすじ、柔らかく塔の中を揺らす。
ナヴィもまた、その風に乗るように、静かにその後を追った。
エラヴィアの執務室。
そこは、塔全体に漂う風の魔力の中心核ともいえる場所だった。
ひとたび足を踏み入れれば、外界とは異なる濃密な魔力の気配が肌を打つ。
まさに、エラヴィアという存在の片鱗が形を成したかのような空間。
応接用に据えられた円卓の上には、今しがた運ばれたばかりの温かな紅茶のティーポットと、白磁のカップが二つ。
エラヴィアは軽やかに手を差し伸べ、ナヴィに座るよう促すと、自らも向かいの椅子に腰を下ろした。
その所作にはいつもの落ち着きがあったが、ナヴィの眼はごまかされない。
改めて間近に見る彼女の顔には、微かに赤みを帯びた目元と、翳るような疲労の色。
まともに眠っていないのだろう。
ナヴィは何も言わず、しかし慣れた手つきでティーポットを持ち上げ、ふたり分の紅茶を注ぐ。
ふわりと香る花のような香りと、立ち上る蒸気の向こうで、彼は一礼しながらそっとカップを差し出した。
だが、エラヴィアはそれをすぐには受け取らなかった。
代わりに唇の端に、わずかないたずらめいた微笑みを浮かべる。
エラヴィア「今日はね、冷たいお茶が飲みたい気分なの」
その一言に、ナヴィの表情がわずかに和らぐ。
ナヴィ「……承知いたしました、エラヴィア様」
そう答えると、差し出したカップに添えられた手から、静かに魔力が放たれた。
竜人である彼の爪先が、ひととき淡い氷の色に染まり、カップの中の紅茶が瞬く間に涼やかな冷気を帯びる。
エラヴィアは満足げに目を細め、涼やかな紅茶を手に取る。
「ナヴィ、貴方のその氷の魔力……それは、私の気を引き締めてくれるの。冷静さを、取り戻させてくれるわ」
エラヴィアは、微笑みながらもどこか陰を落とした瞳で言葉を紡ぐ。
ナヴィは《蒼風の守り手》として各地へ赴くことが多いものの、彼女の側近として、ギルド内で執務を補佐することも珍しくはなかった。
時に優しすぎるエラヴィアは、誰かを傷つけまいとして判断を躊躇うことがある。
そのたびに、決断という重荷を代わりに背負うことが、彼の役目であり、使命だった。
今、目の前の彼女が何かを選びきれずにいる。
その沈黙の揺らぎを、ナヴィは確かに感じ取っていた。
ナヴィ「エラヴィア様……何が、あなたを……」
ナヴィはそう問いかけかけて、ふと言葉を止めた。
その目に揺れる迷い、それは、悩みの原因が一つではないことを知っているからだった。
ノクスの消息。
未だ解けぬベルの呪い。
そして、魔法ギルドという巨大な組織の行く末。
……挙げればきりがない。
それでもナヴィは、まっすぐに彼女を見据えたまま、静かに言葉を継ぐ。
ナヴィ「俺が戻ったことで、少しでも……エラヴィア様の負担が軽くなることを、願っています」
その言葉に、エラヴィアはそっと目を伏せる。
そして、小さく、けれど確かに頷いた。
エラヴィア「ありがとう、ナヴィ」
その言葉が室内の静けさに溶け込み、やがて余韻だけが漂う。
しばしの沈黙の後、エラヴィアはそっと目を伏せ、そして再び顔を上げる。
深く、まっすぐにナヴィを見つめてその瞳には、強さと脆さがないまぜになった光が宿っていた。
エラヴィア「ナヴィ。……もしも、私が間違った選択をしたら」
その声には、迷いと覚悟、そして深い信頼が込められている。
彼女は一呼吸の間を置き、言葉を継いだ。
エラヴィア「その時は、あなたに……止めて欲しいの」
その真摯な願いに、ナヴィは一瞬だけ目を見開いた。
その重さを、重々しくも誠実に受け止める。
静かに、彼は頷いた。
「……承知しました、エラヴィア様。
あなたがどんな道を選ぼうとも、俺は常に、あなたの傍に在ります」
その言葉に、エラヴィアはほんのわずかに安堵の息をこぼし、わずかに口元を緩めた。
だがその笑みの奥には、まだ語られていない決意が、静かに潜んでいた。