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それは、ベルと初めて出会ったあの夜に空に浮かんでいた月と、まったく同じ色をしていた。
まだ魔法にも未熟だったあの頃。
唐突な出会いに心が揺れ、魔力の制御もままならなかった。
――数十年に一度、月が血のように染まる夜。
不吉の象徴とされ、魔物はざわめき、世界の魔力が乱れる。
この夜は“神の眠りが浅くなる夜”とも言われている――
後になって、書物でその現象について詳しく知った。
それから幾度となく、同じ月を見上げてきた気がする。
けれど今夜の月は、記憶の中よりも、どこか強く、切なく映った。
月を見上げるエラヴィアの胸に、かすかな違和感が走った。
月が揺らぎ、滲んで見える。それはまるで、めまいのような感覚だった。
そして、何かが静かに語りかけてくる。
心の奥に、柔らかく、しかし確かな声が届く。まるでどこかへと招かれるように。
この感覚には覚えがあった。
死神が現れ、ベルを救うよう懇願し、自らの爪を預けてきたあの夜の邂逅。
けれど今、エラヴィアを包むものは、それとは根本的に異なっていた。
彼女の意識は、琥珀色の光に静かに染められていく。
眩しさに目を伏せていたエラヴィアは、そっと瞼を開いた。
そこは、まるで世界が光に溶けたかのような場所だった。
すべてが柔らかな光で満ち、輪郭を失っている。
彼女を呼び寄せた存在の姿は、どこにも見えない。
けれど不思議と恐怖はなかった。
この光に包まれていると、なにもかもが許され、赦されるような。
そんな錯覚に近い安堵が胸を満たしていく。
エラヴィア「……誰なの、私を呼ぶのは」
その感覚に抗うように、エラヴィアは静かに声を上げた。
まるで自身を侵してくる光のやさしさを振り払うように。
エラヴィアをこの光の世界へと招いた存在。
その姿は見えない。だが、確かにそこに「在る」のを感じた。
形なきまなざしが、そっとエラヴィアを見つめる。
それは母のように温かく、深い慈しみに満ちていた。
ふいに、声が届く。
それは空気を震わせるものではなく、言葉となる前の想いが、直接心に染み入るようだった。
――我が名は、光と救済の神、ルクシア。
その名が告げられた瞬間、エラヴィアの肩がかすかに強張る。
ベルを救うため、手を伸ばした存在。
聖なる癒しと救済の権化。世界のはじまりより祈られ、崇められてきた、根源の神のひと柱。
ただの名に過ぎぬはずの響きが、魂の奥にまで震えをもたらす。
それほどまでに、この存在は強大で、絶対だった。
この存在が、なぜ自分のような信徒でもない者に接触してきたのか。
エラヴィアは戸惑いながらも、心の内で問いを巡らせる。
光が静かに脈動し、やがて空間の中心にゆるやかな渦を描き始める。
その渦の核から、柔らかな風が吹いた――何もないはずの空間で、まるで大気そのものが彼女の訪れを迎え入れるかのように。
ふわり、と光の波が弾けた。
そこに立つ者の輪郭が、少しずつ現れてゆく。
まず目に映ったのは、淡金の髪。
風もないのに、糸のように細く、優雅に揺れている。
まるで後光のように、周囲の光をその髪が抱き、零していた。
澄んだ琥珀の瞳が、そっとエラヴィアを見つめる。
その視線は厳しさを内に秘めながらも、触れた者の傷をそっと癒すような、温かな慈愛を宿していた。
身を包む衣は、純白と淡金の織りで紡がれ、蓮の花と星々の刺繍が細やかに浮かび上がる。
その一針一針に、光と祈りが込められているかのようだった。
存在そのものが“聖なるもの”であると、誰に言われずともわかる。
涙が自然に込み上げてくるような、畏れと安らぎが同時に胸を満たす。
それは、神――光と救済の女神、ルクシア。
彼女はゆっくりとエラヴィアへ歩み寄る。
その足元には、踏みしめることのない光の蓮が咲き、消えていく。
そして、声が響いた。直接心へと届く、静謐でありながら揺るぎない声。
ルクシア「風の賢者、エラヴィア・セリスフィア。汝の心に、深き迷いと祈りの種を感じました」
その声は祝福にも似て、厳かで優しい。
まるで母が子を抱きしめるような、包み込むような温もりがあった。
エラヴィアはただ、ひれ伏すこともできず、立ち尽くす。
それは、魂の奥底が覚えている“始まりの光”。
そして、すべてを見通す神の眼差しだった。
淡い光が空気に溶けるように揺らめく中で、ルクシアはそっと微笑んだ。
その微笑みは、あたたかな春の陽だまりのように柔らかく、見る者の心に穏やかな波紋を広げる。
ルクシア「……美しき風の律動よ。あなたの魔力は、まるで清らかな流れ。だからこそ、こうしてあなたの前に姿を現すことが叶いました」
彼女の声は、まるで聖堂の奥深くから響く鐘のように澄んでいて、どこか懐かしさを帯びていた。
エラヴィアは、無意識のうちに眉をひそめる。
その疑念を見透かしたように、ルクシアはふたたび静かに口を開いた。
ルクシア「あなたの心に満ちる迷い……それは、死神の祝福を受けし不死の少女にまつわるものでしょう?」
エラヴィアの胸に、冷たいものが広がった。
ルクシアの言葉は、核心を突いていた。
それでも女神は表情を変えない。慈愛に満ちたその琥珀の瞳が、ただ静かにエラヴィアを見つめていた。
ルクシア「――死神の祝福。それは、言葉の響きこそ美しくとも……実のところ、不死という名の牢獄なのです。
時を止められた魂は、死すら許されず、終わりなき孤独と苦しみに苛まれる。
それは祝福ではなく、呪い。いえ……もっと正しく言うのなら、“穢れ”と呼ぶべきものでしょう。
魂の輪廻を断ち、在るべき場所へ還ることさえ許さない。それは、神の理にも背きし力……」
ルクシアの言葉は冷たい断罪ではなかった。
そこに宿るのは、深い哀しみと、すべてを包み込むような慈しみ。
神の眼差しから零れる、静かな真実だった。
ルクシア「……あなたは、その穢れに囚われた少女を救おうとしている。その選択に、私は心を動かされたのです」
琥珀色の瞳がそっとエラヴィアを見つめる。
それは天上の神が、地に生きる者の痛みに寄り添おうとする祈りのような眼差しだった。
その瞳に見つめられ、エラヴィアは言葉を失う。
体を包む光は温かく、すべてを赦すかのように優しく、強く、彼女の心に沁み込んでいく。
まるで「救えぬものなどない」と、静かに告げるかのように。
ルクシア「私の手が必要であれば……祈りなさい。
たとえ幾千の闇に隔たれようとも、必ず――手を差し伸べましょう」
その言葉とともに、ルクシアの姿は光の粒となって静かに空へと舞い始める。
淡金の髪も、神衣の裾も、すべてがやわらかな輝きに還っていく。
蓮の花の刺繍が最後まで残り、花びらのようにふわりと空中を舞うと、それもやがて溶けるように消えた。
聖域のような静寂の中、琥珀色の光だけがしばらくその場に残
り、エラヴィアの胸をそっと照らし続ける。
やがて光もすっと吸い込まれるように消え、世界は静けさと、闇を取り戻す。
エラヴィアはそっと瞼を開いた。
目の前には見慣れた執務室の天井、夜の静けさが戻った窓辺。
さっきまでの光の余韻がまだ肌に、心に、かすかに残っている。
椅子の肘掛けに手を添えながら、深く息を吐く。
まるで夢から帰ってきたような、けれど確かに現実を変える何かがそこにあったと、彼女は感じていた。
エラヴィア「光と救済の神、ルクシア……」
その名を口にした唇は、祈りではなく決意を刻んでいた。
窓の外には未だ血の色の月がエラヴィアを見下ろしていた。