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ここ数日、彼女はギルドの執務に追われており、この隠れ家に立ち寄る時間は遅く、滞在もごくわずかだった。
だからこそ、こうして少し早く戻ってきたことが、ミィナにとっては素直に嬉しかった。
エラヴィアの顔には、薄く疲労の影がにじんでいた。
エラヴィア「有能な部下を休養させてしまっているから、最近は忙しくて……でも今日は少しだけ早く終われたわ」
言葉には冗談めいた調子も混じっていたが、その声の端々には、彼女なりの優しさが滲んでいた。
ナヴィ「申し訳ありません……」
ナヴィが静かに頭を下げた。だが、その動きをエラヴィアがそっと制した。
エラヴィア「あなたにベルたちの護衛を依頼したのは私。謝ってほしくて頼んだわけじゃないの」
その声には、自身の判断がナヴィの負傷を招いたという、責任と悔いがにじんでいた。
ナヴィ「ですが、俺の力が足りなかったのは事実です」
ナヴィは悔しげに顔を伏せる。
エラヴィアは黙って手を伸ばし、そっと彼の頭に触れた。
その仕草は、労いと、そして何より信頼の証だった。
エラヴィアは、少しだけ間を置いてから口を開いた。
エラヴィア「ナヴィ、ギルドの仕事に復帰してほしいの。蒼風の守り手の多くが今ギルドを離れていて……塔の守りが手薄になっているわ」
その声音には、疲れの奥にある切実な思いがにじんでいた。
ナヴィが属する《蒼風の守り手》は、戦闘や救援の任務だけでなく、魔法ギルド自体を護る重要な役割を担っている。
その中でも突出した実力を持つナヴィがギルドに常駐することは、ギルド、ひいてはエラヴィアに悪意を向ける者たちへの抑止となるはずだった。
ナヴィ「エラヴィア様……、ですが……」
ナヴィが静かに顔を上げ、何かを言いかけたその時、エラヴィアは首を振り、先回りするように言葉を重ねた。
エラヴィア「私もノクスのことは心配よ。ベルに残る呪いの糸のことも……」
エラヴィアは静かに目を伏せ、言葉を繋ぐ。
ナヴィは、未だ消息のつかめないノクスの捜索と、呪いの糸によってセラフと繋がれたままのベルを救うため、体が回復し次第、再び旅立つつもりでいた。
エラヴィアは、その強い決意を知っていた。
それでも、彼女はあえてその想いに水を差すように言葉を重ねる。
エラヴィア「だけど、それは……貴方が背負うべきことではないわ」
エラヴィアはまっすぐにナヴィを見つめ、言葉を紡ぐ。
エラヴィア「私が、二人の力になる。そう決めたのよ」
その声には、静かながらも確かな意志が宿っていた。
エラヴィア「ナヴィ……私と、私の大切な魔法ギルドには、貴方の力が必要なの」
その言葉は、命令ではなく、信頼と願いのこもった訴えだった。
ナヴィ「……わかりました」
ナヴィは静かに答えると、まっすぐにエラヴィアの瞳を見つめて頷いた。
かつて、絶望の淵にいた自分に生きる意味と居場所を与えてくれたのは、目の前の女性だった。
その恩に報いるため、ナヴィはエラヴィアに忠誠を誓い続けている。
だが、その決断の裏には、ひとつの心残りがあった。
――エン=ザライアで出会った呪術師マルベラと、その小間使いの少年トーノ。
あの主従の在り方に、ナヴィは無意識に自分とエラヴィアの姿を重ねていた。
マルベラが託した願い。
――トーノに……外の世界を見せてやってほしい。
その言葉が、ナヴィの胸に重く残る。
けれども、彼はその想いを口にはしなかった。
飲み込んだ言葉は、ただ静かに心の奥へ沈んでいく。
時刻は、夕暮れを少し過ぎた頃。
隠れ家で短い休息の時間を過ごしていたエラヴィアは、「今日はまだやることがある」と一言残し、庭に設置された転移の魔法陣から魔法ギルドへと戻っていった。
この隠れ家に設けられた転移陣は、魔力の消費を抑える工夫が施されているとはいえ、日常的に何度も使えば身体への負担も小さくはない。
扉の先に消えていく彼女の背を見つめながら、ナヴィはその姿に改めて決意を固めていた。
ギルドへ戻り、彼女の力になろう。少しでも、その重荷を分け合うために。
ベル「ナヴィ」
ふいに後ろから声がかかる。
振り向けば、ベルが真剣な眼差しでこちらを見つめていた。
ベルは、静かにナヴィに話しかけた。
ベル「私が必ずノクスを見つける。それに……マルベラとトーノにも、お礼を言いに行く」
その言葉に、ナヴィはふと目を細める。
氷のような色を宿した竜の瞳が、どこか柔らかな光を帯びて揺れた。
ナヴィ「ありがとう、ベル」
ナヴィは穏やかに微笑み、感謝の想いを込めて静かにそう応えた。
転移の魔法で魔法ギルドの執務室へ戻ったエラヴィアは、窓際に置かれた椅子に静かに腰を下ろした。
連日の執務に疲弊した身体には、転移魔法の負担は重く感じられる。
表向きには、机に積まれた書類に目を通すだけの仕事に見えるかもしれない。
だが、それらの多くは魔術に深く関わるものであり、単なる文書では済まされない。
中には、魔力を通して真実や隠された意図を見抜くという、極めて繊細な作業も含まれていた。
加えて、最近では魔法ギルドの防衛体制が手薄となっており、
その補填として、エラヴィア自らが普段よりも強力な結界を張り、塔全体を守る役割も担っているのだった。
エラヴィアはふと、執務室の窓の外に目を向けた。
不思議なほど風のない静かな夜だった。
空に浮かんでいたのは、真っ赤に染まった月――まるで血のような色をした月だった。