4-2
ベル「私も、行かなくては……ノクスには、いつも助けられてばかりだった」
囁くようなベルの声には、かすかに震えが混じっていた。
それはただの責任感ではなく、どこか自分を責めるような、痛みを含んだ響きだった。
その言葉に、エラヴィアは静かに首を横に振った。
そして黙って、ひとつの布を彼女の前に差し出す。
それは――白銀の外套だった。
柔らかな光を反射するその布地は、まるで月明かりを纏ったように冷ややかで、しかし確かに聖性を帯びていた。
セラフの外套。
あの日、深く傷つき崩れ落ちたベルを包み込んでいたそれは、かつて血に濡れて真紅に染まっていた。
にもかかわらず、一度水にくぐらせただけで、まるで魔法のように元の白銀を取り戻していた。血の痕も、匂いすらも、何ひとつ残っていない。
その異様な“浄化”は、明らかにこの布の持つ力の一端だった。
ベルの目がその外套に触れた瞬間、彼女の表情は凍りついた。
肌を刺すような聖なる気配――それは彼女にとって、癒しではなく脅威だった。
ベル「……セラ、フ?」
ベルはかすれた声で名を呼び、目の前の外套に視線を注ぐ。
そこに残された魔力の残滓が、静かに、しかし確実に彼女の記憶を抉った。
かつて幾度も夢の中でうなされた、あの悪夢のような日々が脳裏を焼く。
閉ざされた部屋。
光の届かぬ空間で、彼は優しさと残酷さをないまぜにして、ベルを「愛した」。
魔力を縛られ、意志を奪われ、抵抗もできず、ただ再生と破壊を繰り返す身体。
彼はその様を「赦し」と呼び、再生を「神の意志」と称した。
その愛はゆがんでいた。狂っていた。
けれども、それを拒絶する術すらその時のベルには残されていなかった。
外套に近づくだけで、あの時の痛みと羞恥が肌を這い上がる。
身体が、魂が、恐怖を思い出している。
エラヴィアが静かに口を開いた。
エラヴィア「ミィナも、この外套に触れた瞬間、森で一度だけ見たセラフの気配を思い出したわ」
それほどまでに、強く、支配的な魔力。
まるでそこに主が立っているかのような存在感。
しかも、それは以前よりも明確に、力を増しているように感じられた。
その持ち主と、ノクスは確かに対峙した。
だが、ナヴィはその姿を見ていながら、言葉を発することができなかった。
ベル、ノクス、ナヴィ――三人がかりでも苦戦を強いられた、呪いを宿した支脈の呪徒たち。
その群れに覆われていたベルをたった一人で救い出したセラフの姿は、一見すればまさに英雄だった。
だが、その英雄はベルを執拗に呪いで縛り、壊れた愛を押し付け続けた男。
狂気に塗れた、異常な魔力をまとう者――セラフ。
ノクスは、そんな男の前からベルを奪い逃がした。
その行動が、あの男にとってどれほどの「侮辱」として映ったか。
それを思うだけで、ナヴィの胸は重く沈む。
ノクスは……まだ生きているのか。
その先を考えることすら、恐ろしくてできなかった。
エラヴィアはベッドの傍らに膝をつき、二人の顔を優しく見つめた。
その瞳の奥には、痛みも焦りもあった。だが、それでも彼女は微笑む。
エラヴィア「今は……まず、身体を休めるのが先よ」
穏やかな声だった。けれど、その微笑みはどこか張りつめていた。
心が急いているのを、必死に隠しているように。
ベルとナヴィは何も言わなかった。
それでも彼女の言葉は、冷えた空気に一筋の灯火のように染み渡る。
エラヴィア「ノクスのことは――引き続き探すわ。必ず、見つけ出す」
そう言って、エラヴィアは立ち上がる。
外套の裾がふわりと揺れ、足音ひとつ立てずに扉の方へ向かう。
扉に手をかける前、エラヴィアは小さく息をつき、誰にも聞こえない声で囁いた。
エラヴィア「どうするべきか……」
静かに扉が閉まり、エラヴィアは魔法ギルドへ戻るため、冷たい外気の中へと消えていった。
その入れ替わりのように、扉が再びゆっくりと開く。
温かな香りとともに現れたのは、ミィナだった。
彼女の手には、蒸気を立てる器の乗った盆。
スープの香りが部屋を満たし、疲れ切った心をふっと解かすように広がる。
ミィナ「……二人とも、起きててよかった!」
そう言って、ミィナは微笑む。
その目元にはうっすらと隈があったが、彼女は気丈に笑っていた。
ミィナ「少しでも食べて。特にベル……こんなに細くなって……」
ミィナの指がそっとベルの頬に触れる。
指先に感じるのは、熱ではなく、削がれた命の重みだった。
ベルはわずかに頷きながらも、外套の感触をまだ指先に残したまま、どこか遠い場所を見つめていた。