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4-1

太陽が沈み切る直前、空が赤く燃え上がる夕暮れ時。

エラヴィアは、隠れ家の小さな庭に立っていた。


葉と葉が擦れ合う、かすかなささやきだけが耳を満たす。

けれど、その静寂の中には、風が運んでくる別の音があった。


耳を澄ませば、それは遥か遠くの街から響く人々のざわめき──

その喧騒の中に、ひときわ清らかな旋律が混ざっていた。どこか懐かしい、それでいて痛みを伴う響きだった。



「……女神ルクシアよ、光の御名のもとに、この苦しみから我らを解き放ちたまえ──」



讃歌が風に乗り、まるで空を越えて、この庭へとまっすぐ届いた。

光と救済の女神、ルクシア。

最も古き神々の一柱であり、その信徒はかつてベルを呪いの糸で縛り、そして、同じ信徒の手によって彼女はその糸から解かれた。

呪いの残滓はいまだ彼女の身に絡みついているが、状況は確かに動き始めている。



共にエラヴィアの頭に浮かぶのは対極の存在、不老不死の祝福を与えた死神。

ベルの魔力が尽きたときに発動する、不可侵の殻──“死神の揺り籠”。

さらに、かつてエラヴィアに託された“死神の爪”によって、ベルが命を繋いだ一件。

それらは、彼女を不老不死という地獄へと突き落とした存在の所業とは思えないほど、あまりに矛盾し、救いの気配すら滲ませていた。

しかし今のベルの状況をみても救いを与えない死神にエラヴィアは不信を募らせる。



ミィナ「エラヴィア……そろそろ、外は冷えるよ」



思考の迷宮に沈みかけていた意識を、ミィナの声が現実へと引き戻す。

その声は柔らかく優しいが、顔には隠せない疲労の影が色濃く刻まれていた。



数日前、ナヴィに託された転移符が発動し、ベルと彼がこの隠れ家へと戻ってきた。

二人とも深く傷つき、意識を失っていた。



ナヴィは、魔法ギルドの長エラヴィアの直属であり、彼女を心から敬愛する者。

その名のもとに動く戦闘組織《蒼風の守り手》の中でも指折りの実力者である。


さらに彼は、銀の竜人族という希少な血を引いていた。

外見こそ人間に近いが、その肉体の頑強さと耐久性は人の域を超えている。

その彼が、ここまで衰弱して帰ってくることなど、これまでにほとんどなかった。



だが、ベルの姿はそれ以上に痛ましかった。



何度目にしても慣れることなどできない。不死だからと、当然のものとして受け入れることもできなかった。

これが本当に、死神がベルに与えた“祝福”なのか、とエラヴィアは胸の奥に静かな怒りを抱いた。



回復魔法を拒むベルの肉体。その痛みを、代わりに引き受ける術を用いて、エラヴィアは黙って彼女を支え続けた。



やがて、二人はゆっくりと目を覚まし、かすかに言葉を交わせるまでに回復していた。



エラヴィアは隠れ家の中へ入り、静かに扉を閉めた。

足音を立てぬように廊下を進み、ベルとナヴィを休ませている寝室へ向かう。


部屋の扉を開けると、ほのかに甘く落ち着いた香が漂ってきた。

ミィナが焚いたものだろう。気遣いのにじむ香りに、エラヴィアはそっと息をつく。



ベル「……エラヴィア」



静かな呼び声に目をやれば、ベッドの上で体を起こしているベルの姿があった。

あの凄惨な傷は、不死の力によって既に癒えていた。

その体だけを見れば、悪夢はもう過去のことのようにさえ思える。

だが、消耗した体と魂の深い疲労は、再生の速度を鈍らせていた。



隣のベッドでは、ナヴィがまだ横になったまま、薄く目を開けてこちらを見つめていた。



ナヴィ「……エラヴィア様」



かすれた声でそう呼ぶナヴィの表情には、痛みと安堵が滲んでいた。


二人がこの隠れ家に戻ってきてから、そろって目を覚ましたのは、これが初めてだった。

沈黙の時間がしばし流れ、その中で、ベルがふと口を開く。



ナヴィ「……ノクスは」



その名は今まで、誰の口からも出されてこなかった。

触れれば崩れてしまいそうな、壊れた硝子のような記憶。

ベルの声は弱く、それでいて深く胸に刺さる響きを持っていた。


あのとき、ノクスは最後の魔力を振り絞り、ベルとナヴィをこの隠れ家へと転移させた。

その瞬間、彼がどんな表情で彼女たちを見送ったか、ナヴィはそれを、最後まで見ていた。


ナヴィは、苦しげに唇を引き結び、目を伏せる。

答えを絞り出すように、わずかに首を横に振った。



エラヴィア「……わからない。風の精霊も……彼の姿を探してはいるのだけれど」


エラヴィアの声は静かだったが、内に秘める焦燥と痛みが滲んでいた。

風に祝福された魔導師である彼女のもとには、常に幾筋もの風が流れている。

それらに命を吹き込み、ノクスの名を伝え、彼の気配を追わせてきた。だが──



エラヴィア「足取りは、いまだに掴めないわ」



言葉の余韻と共に、部屋の中の空気が重たく沈んだ。

焚かれた香の煙が、ゆらりと天井へ昇る。



ベッド「私を縛る呪いの糸……それはまだ残っているのよね」



ベルの言葉は、どこか遠くを見つめるような、乾いた響きを持っていた。

彼女の視線は、左手の薬指に宿る指輪へと注がれている。

美しく細工されたその指輪は、まるで肌に沈み込むようにぴたりと馴染んでいた。まるで、永遠に外れないことを当然のように誇っているかのように。



ナヴィ「命を結ぶ糸……」



ナヴィが静かに言葉を継ぐ。



ナヴィ「マルベラが一番厄介だと言っていた」



彼は目を伏せ、あの老練の呪術師の姿を思い出す。



乾いた土のような声で語られた「命を結ぶ糸」の呪い。

その残酷さと正確さに、彼は言葉を失った記憶があった。



ナヴィ「俺はマルベラと約束をした」


ナヴィの声が少し掠れた。


ナヴィ「ベルの解呪の対価に、トーノに外の世界を見せると」



その言葉に、ベルがわずかに目を細める。

ナヴィは喉の奥で呼吸を整えるようにして、続ける。



ナヴィ「だから……戻らなくては。あの街に」


彼の拳が強く握られる。


ナヴィ「きっとそこに、ノクスも……」



その名を口にした瞬間、声が震え、最後の言葉はかき消された。

部屋には再び沈黙が訪れる。

外では風が木々の葉を揺らし、その音だけが静かに響いていた。


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