プロローグ
エラヴィアは、遥か昔の記憶を静かに辿っていた。
それは、ベルと共に旅をしていたあの時代の記憶。
長命な種族。
数少ないハイエルフの一人である彼女は、魔法の道を極めるため、己の生きる意味を求めて旅を続けていた。
その旅の中で出会ったベル。
その時も傷つくことを厭わず戦い続けていた。
鋭利な牙を剥き出し、飢えた魔物が彼女を襲う。
しかし、ベルは恐れることなく、それどころか己の身を顧みず、あえて小さなナイフを握りしめ戦いに臨んでいた。
その戦いぶりは常識を逸していた。
本来ならば彼女が放つ膨大な魔力だけで、この程度の魔物は容易く屠れるはずであったにもかかわらず、ベルは目の前の獰猛な牙と爪に、自らを晒し続けていた。
魔物の爪が肌を裂き、牙が肉を噛み砕くたびに、赤い血が舞い散る。
その度に、彼女の唇には薄く、どこか哀しくも美しい微笑みが浮かんでいた。
まるで自ら傷つくことを選び、その痛みを噛み締めているかのような、不可解な立ち回り。
エラヴィアは、ただただ見惚れていた。
気づけば、その胸に込み上げるものを抑えきれず、涙がこぼれ落ちていた。
その涙が地面へと落ちる。
その微かな音に、魔物が気づいたのか、それとも偶然か、ゆっくりとこちらへ顔を向ける。
迫りくる爪と牙。
エラヴィアは魔法で風を起こし身を守ろうとするが、呪文はうまく発動せず、心が乱される。
やがて、感じたのは生暖かい臭いと、不穏な温度。
自分の身体にかかる重み。
だが、不思議なことに痛みはなかった。
目の前には、喉を一突きにされて絶命した魔物の姿。
その体から広がる鮮血が暗闇に赤く染まる。
「今日は月が紅い。こんな日は魔力が乱れて魔物も騒ぐ。早く帰ったほうがいい。」
夜の闇の中で淡く輝く、ラベンダー色の髪。
まだ幼いその少女は、まるで幼子を諭すかのように、静かにエラヴィアへ告げた。
――それが、私と彼女の出会いだった。
目的地の定まらぬ放浪の旅。
エラヴィアはその日から、ベルとともに歩むことを選んだ。
それがベルの瞳の奥に潜む、孤独と孤高さに心を惹かれたからなのか。
出会った瞬間から、エラヴィアの運命が静かに変わり始めていたのかもしれない。
やがて共に過ごす旅路のなかで、エラヴィアは何度も、ベルが無謀に見えるほどの戦い方で傷を負いながら、なお歩みを止めぬ姿を目にした。
彼女の口から語られる傷の記憶。
それらは、戦いによるものだけではなかった。
不死であるがゆえに、彼女は幾度も痛みを受け、心を削りながら、生き続けてきた。
「どうせ私は死なないのだから」と、どこか諦めにも似た笑みを浮かべながら。
だが、たとえ不死の身であろうとも、痛みも、魂の傷も、嘘ではない。
不老不死――それは彼女にとってまさに地獄の輪廻。
もし彼女をそこから救い出したとしても、死が全てを救い得るのだろうか。
エラヴィアは旅を終えた後も今もなお、その問いと答えを探し続けている。