3-83
ノクスの意識が浮かび上がる。
まぶたの向こうが眩しい。
風が肌を撫で、草の匂いが鼻をかすめた。
ノクスはゆっくりと瞳を開けた。
天井は、ない。
壁も、扉も、窓も。
そこは室内ではなかった。
空があった。
朝の空。青く澄んで、高く、どこまでも静かだった。
彼は草の上に横たわっていた。すぐそばには、見慣れない丘の起伏。
街の鐘の音が、かすかに風に乗って届いていた。エン=ザライアの町から、そう遠くない東の野だとすぐに気づく。
ノクス「……どうして、ここに……」
マルベラの家で意識を失ったはずなのに。
記憶はあいまいだった。
だが、すぐに視界の隅に動く影を捉える。
一人の少年が、背を向けて何かをしていた。
姿は、トーノだった。
色を持たない白い髪が朝日に淡く光り、その細い背中に、どこか痛ましさを感じさせるあの少年。
けれど──何かが違った。
ノクスは躊躇いながら、声をかけた。
ノクス「……トーノ?」
少年はぴたりと動きを止める。
ゆっくりと、機械仕掛けのように首を回し、振り向いた。
その顔は、確かにトーノのものだった。
けれどその表情には、あの消え入りそうな優しさも、怯えも、憧れもなかった。
目の奥が冷たい。言葉にできないほどに、無慈悲で、そして澄んでいる。
「違う、とは……言い切れないな」
その声に、ノクスの体が震えた。
聞いたことがある。忘れるはずがない。
あの夜、ベルを血に染めた、あの声。
ノクス「……玄宰……」
トーノの姿の中に、それは確かにいた。
だがトーノの気配も、ほんのわずかに、残っていた。
ノクスは震える足を押さえ、ゆっくりと立ち上がる。
自分の手が小さく震えていることに気づきながら、彼がしていた“何か”を見ようと、その足を一歩踏み出した。
目を凝らしたノクスの視界に、ひとつの異様な光景が飛び込んできた。
草の揺れる丘の上。
柔らかく陽を浴びる土の上に、ひとつだけ異質な“膨らみ”があった。
風に揺れる灰色の髪。
半ば閉じられたまぶたと、安らかに眠るような表情。
ノクス「……マルベラ……?」
声にならない息が、ノクスの喉奥から漏れた。
マルベラは、顔だけを残して土に埋められていた。
整えられた姿。
まるで、墓のように。
首元まで丁寧に土が盛られ、乱れた髪すらも指で撫でつけられたような痕跡があった。
ノクス「墓を……作ったのか……?」
ノクスは呟いた。
混乱が頭を満たす。
だが、もっと衝撃的だったのは──それを作っていたのが、トーノの姿をした“あれ”だったこと。
ノクス「なぜ、お前が……」
背を向けたまま土をならしていたその姿が、ゆっくりと振り返った。
だが、その目に映る光。
口元の歪み。何より、その空気がトーノのものではない。
「……何故、と問うか」
その声には、聞き覚えがあった。ノクスの記憶をえぐるような、不気味で凍りつくような響き。
ノクス「玄宰……」
ノクスはその名を口にした。
ベルを追い詰め、血と死をばらまき、愉悦に歪んだ笑みで戦場を踏みしだいてきた、あの狂気の男。
だが、目の前にいる“彼”は、どこか奇妙に静かで、抑えられていた。
「……この体が……トーノが、私の中で喚くのだ」
玄宰──いや、“彼”はそう呟いた。
その口調には怒りとも戸惑いともつかない感情が滲んでいる。
「このまま街にマルベラを残すなと。お前──ノクスのことも置いていくなと。あの小僧はうるさく囁いてくるのだ、頭の内で、何度も、何度も……」
ノクスは沈黙した。
あの戦いで瀕死になった自分を、街の外まで運んできたのがこの“姿”だったとしても、不思議とは思わなかった。
その動機が、もしトーノの意志だというなら。
「マルベラを……日のよく当たる、丘に……連れていけと、な。土の匂いの届く場所で眠らせろと……」
そう言いながら玄宰は、忌々しげに自らの手を見つめた。
だがその手には、土を掘ったばかりの泥がこびりつき、指先にはまだ温もりがあった。
「逆らうと……体が、動かなくなる」
低く吐き捨てるように、彼は言った。
まるで憑き物に取り憑かれたように、ひとつひとつの言葉が重かった。
その目が、もう一度マルベラを見つめる。
そこには確かに、狂気ではない、穏やかな光が宿っていた。
「弔いの言葉など知らない。……別れを告げるのなら、早く済ませろ」
その低く投げ捨てるような声は、ノクスに向けられたものではなかった。
玄宰が、己の内にいるトーノに対して発した言葉だった。
それを受けるように、トーノはゆっくりと地に膝をついた。
土に顔だけを残して埋葬されたマルベラ。その前で、彼は掌を重ね、静かに祈りの姿勢をとる。
小さく、囁くように紡がれる祈りの言葉。
それはマルベラが生前、光の女神に捧げていた祈りと同じものだろう。
「明けの光よ、夜の闇を抱くものに憐れみを。
──迷う魂が行きつく先に、あなたのまなざしがありますように」
細く、震えるような声。
けれどその祈りには、確かな温もりと、後悔に満ちた真実があった。
それは紛れもなく、トーノ自身の言葉だった。
祈りを終えたトーノは、そっとマルベラの顔に最後のひと握りの土をかけ、その上に小さな白い石を置いた。
それは彼女が好んで飾っていた庭石に似ていた。
小さく、丸く、やわらかな質感。まるでマルベラそのもののようだった。
ノクスは静かに懐に手を入れ、革の紐で縛られた小さな袋を取り出す。
それはミィナが持たせてくれた、魔物避けの香草の束。乾いた草の香りが風に乗って広がり、墓の周囲を静かに包む。
ノクス「マルベラが……安らかに休めるように」
ノクスは目を閉じて黙祷した。
祈りというより、心の底からの願いだった。
やがて、沈黙の中で彼は口を開いた。
ノクス「……お前は、これからどうするんだ?」
ノクスの視線が、トーノの姿をしたその存在に向けられる。
背を向けたまま、玄宰――いや、“ふたり”の声が応える。
「街にはもう、同士もいない。この器も……私の不死と結びつき、命を長らえた。
しばらくは……この体の意志に従おうと思っている」
その声音は、かつてベルと対峙した冷酷な狂人とは異なっていた。
言葉の端々に、理性の影――古き研究者としての名残が滲んでいた。
「この体……トーノはお前と共に行きたいと言っている」
ノクスは目を細め、まっすぐに彼を見据える。
ノクス「……俺は、お前を許してはいない。
だけど――トーノが、お前の中に生きてるというのなら……その体からお前を追い出す術を、必ず見つけ出す」
その言葉に、トーノは小さく頷いた。
その仕草が誰のものなのか――玄宰か、トーノか、それとも両方か――ノクスにはわからなかった。
マルベラは、いつかトーノに外の世界を見せてやりたいと語っていた。
……その願いは、今、いびつな形で叶おうとしている。
ノクスは、何も言わずに歩き出した。
そして一拍遅れて、彼の隣にトーノの姿が並ぶ。背丈は少し低く、しかしその歩幅はまっすぐに揃っていた。
二人は丘を下り、陽の登った大地へ向かって歩いてゆく。
風が、マルベラの眠る丘に花の匂いを運んでいた。
いくつもの命が交わり、すれ違い、失われていった中で――残された者たちは歩き続ける。
それが贖罪であれ、遺志であれ、あるいはただの執着であったとしても。
物語はまだ終わらない。終わらせることなど、きっと誰にもできはしないのだから。
第三章おしまいです。