3-82
琥珀色の残光が去ったあと、セラフの中に確かに残ったものがあった。
それはかつて捨てたはずのもの。否、心の奥に埋めていた信仰の灯。
女神ルクシアへの信仰だった。
地に伏していた身体がゆっくりと起き上がる。
衣が光に包まれる。
魂に深く染み込んでいた祈りの残滓が、再び目を覚ます。
それは彼がかつて捨てたもの。
だが、完全には消えなかったもの。
胸の奥底に残っていた信仰の断片が、女神ルクシアの光と共鳴する。
――あなたは戻ってきた。ならば、すべてを返しましょう
耳元に響く声と共に、光がその身を覆う。
一度は堕ち、疲弊した魂を女神は赦し、再び祝福を与える。
かつて身に纏っていた聖騎士の白銀の甲冑が、まるで呼応するように再構成されてゆく。
それは信仰を失った時に失われたもの、だが信仰を取り戻した彼に与えられた“帰還の証”。
ただし、それはかつてとまったく同じではなかった。
白銀の輝きはなお健在で、神の加護は確かに宿っている。
だが、鎧の奥に滲むのは“何か”が変質した証。
それは、愛ゆえに神を捨てた男の、矛盾した信仰の形。
その白銀には、穢れと狂気の影が微かに揺れていた。
まるで彼の魂が、そのまま形を得たかのように。
聖騎士としての威光と威厳は確かにそこにある。
だが、それはただの聖なる戦士ではない。
信仰と赦しの仮面を被りながらも、どこか異質な気配をまとった“歪んだ聖騎士”。
失われたはずの聖剣が、彼の手に戻ってくる。
その刃はかつてと同じく、いや、それ以上の光を帯び、神の加護を宿して静かに輝いていた。
その瞬間、頭に響いた声がある。
――おかえりなさい、わたしの忠実なる子よ。
――ようやく、あなたは正しき道へと帰ってきたのですね。
セラフはその声に、かつての安堵を感じた。
だが、同時に冷たいものが背筋を撫でる。
なぜなら、その声は、甘やかで優しいだけではなかったからだ。
――あなたがあの少女を愛したこと、わたしは咎めません。
――それほどに強く、深く、誰かを想えたこと……それすらも、祝福なのです。
女神の声は、確かに優しかった。だが。
――けれど、あの少女は死神の穢れに囚われている。
――救いを拒み、永遠という名の呪いに浸かっている。
――それは赦されぬ。だからこそ、あなたが解き放ちなさい。
――そして、彼女にも“救済”を与えなさい。
セラフの手に力が入る。
かつて、その手でベルを奪い壊し、愛した。
だが今、その手は彼女を救済するために振るう剣を握っている。
ルクシアの声が、さらに深く彼の意識に染み込む。
――もしあなたが、自らの過ちを悔い改めるのならば……
――信仰を棄て、道を外れたあの者たち《黒き観測者》を、裁きなさい。
かつて自分が身を置き、ベルを求めるために属した組織。
それは彼が神を捨て、真実を求めたあの時間そのものだった。
――いいえ、これは裁きではありません。
――救済なのです。
――神の存在を感じられぬ者たちを、闇から連れ戻してあげるのです。
――それこそが、あなたに課された使命。
その言葉は、セラフにとって“絶対”だった。
魂の奥深くに刻まれた、神の意志――否、ルクシアの“正しさ”。
剣を携えたセラフは、静かに立ち上がる。
その瞳に宿るのは、かつての聖騎士としての誇り、そして新たなる覚悟。
深黒の施設を包む静寂は、突如として砕け散った。
白銀の刃が、壁を裂く。
光を纏った一閃が闇を切り裂き、聖騎士がその奥から姿を現す。
足音すらなく、影から現れたような登場だった。
セラフ。
組織の記録からはすでに抹消された存在。
だが、その気配は消えていなかった。
整いすぎた身形。乱れ一つない銀の鎧。
神の名の下に形作られたその姿には、見る者の心をざわつかせる違和感があった。
静かに歩く。
警告も名乗りもない。ただ、剣を握り直す仕草だけが語る。
「……」
最初に立ちはだかった衛兵の喉が、音もなく裂かれる。
振り返る間もなく、次の者の胴が裂ける。
セラフの剣は、一切の躊躇もなく、まるで祈るように振るわれていた。
その目は、澄んでいる。だが、その奥には冷えきった光――信仰に裏打ちされた、狂気すら滲む。
「止まれ!」
「セラフ、貴様はもう……っ!」
応じない。
剣は語らず、ただ裁きの光だけを放つ。
構内の蝋燭が明滅する中、銀の影が幾人もの反逆者たちを貫いていく。
膝を折る者、叫ぶ者、逃げ惑う者。
だが、セラフは一歩も止まらない。
その姿はまるで、「赦しをもたらす処刑者」。
かつてこの組織で慟哭の従者と呼ばれた男が今、神の手足として汚れなき剣を振るう。
次第に、典書が現れる。
魔術によって空間を撹乱し、戦況を歪めようとするが、
セラフは剣を、祈るように掲げた。
「記録を捻じ曲げようとするな」
それが、数少ない彼の言葉だった。
刃が空間を裂く。魔術ごと典書の盾を切り伏せ、無慈悲に腹部を貫いた。
典書の目に映ったのは、光に満ちた瞳。
そこに怨嗟も怒りもない。ただ純粋な「信仰」だけが宿っていた。
典書「……そうか。狂っているのは……お前か」
その声を最後に、典書は沈黙する。
残るは導師――精神的な象徴。
中央の空間に、静かに立ち尽くしていた。
導士「この力が神のものか……哀れだな。人よ」
導師の言葉に、セラフは答えない。
ただ一歩、また一歩と近づく。
導師が指を弾いた瞬間、施設の中に封じられていた数多の兵器、対魔構造体が起動する。
だが、銀の剣はすべてを断つ。機械の脚を、魔力の装甲を、構造を、理を。
剣閃が連なる。祈るように、無言で、慈しむように。
その姿はあまりに清らかで、あまりに異常だった。
やがて導師も、屈し――
導士「……神は、必要ない」
という最後の言葉を残し、床に沈む。
すべてが静かになる。
セラフはただ一人、瓦礫の中に立っていた。
汚れひとつない鎧と剣。
それこそが、異常そのもの。
黒き観測者の拠点を満たしていた闇は、血と光によって切り裂かれ、そして沈黙に支配された。
立ち尽くすセラフ。
その鎧は返り血を一滴たりとも受けていない。
神に選ばれし者のように、あるいは人ならざるもののように。
すべては整っている。美しすぎるほどに。
だからこそ、不自然。だからこそ、恐ろしい。
崩れた施設の奥に、導師も典書も、もはや存在しない。
裁きは終わった。
だが、終わりではなかった。
その時だった。
どこか遠くから、いや、頭の奥深くから響く声があった。
――よくやりました、我が子。誇り高き、忠義の剣よ。
それは、柔らかく、微笑むような声だった。
だがそこには、人知を越えた静謐があった。
温もりに似た声は、何よりも冷たく、恐ろしい。
――彼らは“見えなかった”のです。
――神の光を、正しき秩序を……否定せざるを得なかったのでしょう。
――ならば、それもまた救い。あなたが彼らを浄めたこと、わたしは嬉しく思います
セラフは答えない。ただ、静かに剣を鞘に納める。
その動作すら、完璧だった。狂気のように。
――次は死神の穢れから彼女を解き放ち、真なる救いへと導きなさい。
沈黙。
そして、足音が一つ。セラフは歩き出す。
――あなたの剣は、もはや赦しを拒むものではない。それは、裁きと救いを両立させる、神の象徴……。
ルクシアの声は、まるで風が止むようにふっと消えた。
残されたのは、静寂と、聖騎士の足音だけ。
乾いた大地に、その一歩一歩が確かに刻まれる。
誰にも見られることなく、誰にも語られることなく。
だが、迷いはなかった。
その足取りは、遠く、遠く。
やがて訪れるベルの目覚めの日まで。
その剣に誓いを宿し、ただひとつの祈りのように歩み続ける。
裁きと、救いをその手に携えて。