3-81
空が、ようやく白みはじめていた。
霧をたたえた静かな空気のなか、セラフはひとり、瓦礫と灰に沈むエン=ザライアの街を歩いていた。
足取りは穏やかで、まるで全ての終わりを見届けた者のように、どこか満ち足りた静けさを帯びていた。
風が、かすかにベルの香りを運ぶ。
それは錯覚だと知っている。
彼女は今や、どこか遠く、時の淵に隔てられた場所にいる。触れ得ぬ夢、戻らぬ幻。
それでも、セラフは、笑った。
セラフ「……ああ、会えた。ようやく……やっと、また触れられたのに」
震える声は、嬉々として。
嗤いと嗚咽が入り混じり、喉の奥で絡まりながら言葉を紡ぐ。
セラフ「まあ、またすぐに会える……だって、彼女は生きている。僕とベルの命は、まだ、繋がっている。
彼女がいるかぎり、僕たちはまた……巡り逢う。たとえ時が千年の眠りを赦しても、その終わりには、僕が待っている。必ず」
淡い光が、灰色の街の隙間から差し込み、彼の背を照らす。
久しく忘れていた、肌の感触。
久しく禁じられていた、彼女の体温。
あの瞬間、ほんのひととき、指先が確かにそれに触れたのだ。
セラフの頭にふと思い出されるのは、一度手に入れてこの手をすり抜けたベル。
そして彼が全てを失いかけた、あの楽園の終焉を。
あの夜、ベルは死神の揺り籠に包まれた。
赤紫に輝く、半透明の殻。
それは硬く、冷たく、ベルを決して触れられぬ存在へと変えた。
セラフは知っていた。
あれがただの眠りではないことを。
あの揺り籠は、数日で解けることもあれば、時には人の命をいくつ越えてもまだ届かぬほどの“時”を封じるものだということを。
かつてセラフはベルを捕らえるため、周到に計画を練り、
結界で閉ざされた世界を狂気の内に築き上げた。
その部屋を、セラフは“楽園”と呼んだ。
隔絶された空間で、彼は一度は手に入れたはずのベルの記憶と、
彼女の気配の残響と共に、ひとり過ごしていた。
けれどその日音もなく落ちた、小さな破片がすべてを壊した。
ベルが身に着けていた髪飾りが、床に落ち、砕け散ったのだ。
セラフは叫びながら、その欠片を指先で必死に集めはじめた。
床を這い、血がにじんでも気に留めず、ひとつ、またひとつと拾い上げる。
壊れた飾りをベルそのもののように扱い、震える手で形を戻そうとする。
だが、どれだけ拾っても、どれだけ繋いでも、砕けた破片は再び一つにはならなかった。
セラフの指先からは、血が雫となって欠片に染み、じわりと広がっていく。
そして彼の背に刻まれていた、ベルへの愛を象った紋章が音もなく崩れ落ちた瞬間、彼はすべてを失ったことを悟った。
次の瞬間、セラフの内に残っていた最後の均衡が崩れた。
彼は絶叫し、目を潤ませたまま立ち上がると、
“楽園”と呼んだ空間を破壊しはじめた。
彫像を砕き、壁に刻んだ詩を裂き、
ベルの面影を残すあらゆる物を、自らの手で壊していった。
混濁する視界のなか、剣を手にした彼は、
その刃をゆっくりと、己の胸元へと向けた。
だが、その瞬間だった。
まるで優しく抱きしめるように。
あたたかく、懐かしい――光。
セラフの前に、夜を断ち切るような柔らかな琥珀の光が差し込んだ。
まるで夢の中にいるかのような、静けさと温もり。
彼は顔を上げる。そこに立っていたのは、忘れ得ぬ神の姿。
白銀の蓮を従え、淡金の光に包まれた彼女は、昔、祈りの中で何度も見た存在だった。
両手を差し伸べるその姿は、あまりにも神聖で、近づくことすら恐れ多い。
けれど、彼女の笑みはすべてを許し、すべてを包んでいた。
心の奥底に沈んでいたものが、ゆっくりと光へとほどけていく。
ああ、これは確かに、自分がかつて信じていた光だ。
救いの象徴、すべてを正す存在、己を導いてくれた唯一の絶対。
――必要なものは与えましょう。欠けたものは、満たしてあげましょう。
彼女の声は、音ではない。風のように優しく、水のように深く、魂に直接触れる響きだった。
――けれど……間違ったものは、正さなければならないのです。
――それがすべての者にとっての、真の救い。
その言葉とともに、空に白銀の蓮が咲く。
ひとひら、またひとひらと、星のように舞い、光と共に消えていく幻想的な光景。
神の微笑は、慈愛と祝福そのものだった。だが、同時にそれは審判の微笑でもあった。
ルクシアの目は閉ざされている。だが、確かに彼を見ていた。
そして、優しくも決して逃れられぬ光の鎖で、心を捕らえていく。
――さあ、わたしの子。もう一度、正しき場所へ帰りなさい。
――すべてを清め、すべてを赦し、わたしがあなたを、救ってあげましょう。
その瞬間、セラフの胸に崩れ落ちていた信仰の欠片が、静かに息を吹き返す。
彼は気づく。光はまだ、自分を見捨てていなかった。
罪も苦悩も、すべてを抱えてなお、彼を「子」と呼んでくれる存在がいる。
涙が頬を伝い、熱となってこぼれた。
セラフは、静かに頭を垂れる。
かつて信じ、そして手放した神の前で、彼は再び、祈りの姿勢を取った。
それが、彼の“救済”の始まりだった。