3-80
割れた瓶の棘が肉に刺さる。
けれど、痛みはなかった。
その皮膚はすでに、トーノのものではなかったのだ。
侵食は、表層だけにとどまらなかった。
皮膚の下──筋繊維、血管、神経のひとつひとつに、玄宰の肉が染み込んでいく。
まるで墨を落とした水のように、黒が広がり、混じり、元の形を塗り替えていく。
骨はしなり、内臓が膨張し、異なる構造を受け入れるように変形する。
精神と肉体の境界もまた、脆く崩れていった。
トーノの“心”は、玄宰の意志に侵食されながら、なお消えずに残っていた。
──溶け合っていく。
憎悪でも愛でもない、ただ果てしない“質”の違いを抱えたまま、
ふたりの存在が重なり、混じり、曖昧になっていく。
意識の底で、トーノは抗った。
けれどそれは、生への執着ではなく、誰かを傷つけたくないという最後の灯火だった。
そしてその灯火が、玄宰の内に予期せぬ“異物”として焼きつく。
玄宰(……これは……誤算か……)
玄宰の意識の片隅に、にじむようなトーノの感情が流れ込む。
淡く、微細で、けれど確かに──根を張る。
すべてを喰らい尽くすはずだったはずの存在に、微かに滲む「拒絶」が生まれる。
だがもう、引き返す術はなかった。
玄宰であった肉塊は、最終的にすべてトーノの身体に収まりきった。
表面上は、ひとりの少年の形を成していた。
けれどそれは、決して“トーノ”ではなく──“トーノであったもの”だった。
儀式の間。
崩れた石壁に、大きな穴が空いていた。
外の光は届かず、煤けた香の香りだけが漂う。
その中央に、“彼”は倒れ伏していた。
意識は消えていた。
動きはない。
だが、その皮膚の下では、絶えず何かが蠢いていた。
血液ではない液体が巡り、神経でない器官が脈動し、皮膚の内側で何者かが呼吸していた。
肉が動いている。
彼という存在が、内側から組み換えられ続けているのだ。
そして──
かつての玄宰の器だった、金髪の少年の顔の残骸が、床に落ちていた。
肉の仮面のように、薄く、乾いて、魂の抜けた皮の一片。
重力に負けたそれが、はらりと落ちて、床石に触れて砕ける。
音は、小さく。
けれど、それは確かに“終わり”の音だった。
──トーノは、もういない。
彼の肉体の中に、二つの意識が沈殿しながら、
新たな“何か”が、目覚めのときを待っていた。
煤けた空気がまだ残る石造りの廊下を、ノクスはふらつく足取りで進んでいた。
ノクス「……トーノ……?」
声を出した自分に、少しだけ驚く。
答える声はない。
だが、何かが“そこ”にいる。
否、それは、彼が探している存在であるようでいて──そうではない。
儀式の間。
壁に開いた不自然な空洞。
焦げた臭い。
砕けた魔法陣。
血。
黒い繊維のようなものが乾いた床に絡みついている。
そして、その中心に。
小さな体が、倒れていた。
うつ伏せになったまま動かない、痩せた背中。
見慣れた服。見覚えのある輪郭。
だが──
ノクス「トーノ……!」
ノクスは駆け寄り、その体のそばに膝をついた。
けれど手を伸ばす前に、全身が凍りつく。
これは、トーノじゃない。
そう“感じた”。
見た目は、確かにそうだった。けれど、その内側から放たれる気配──それはトーノのものではなかった。
異物が混ざっている。
気配が、何重にも層を成して、複雑に折り重なっている。
まるで複数の“存在”が同時にそこに存在しているかのような、濁った気の流れ。
それでも、完全にトーノではないわけではなかった。
深く、奥の奥に、かすかに灯る“何か”がある。
ノクスだけが、わかる気がした。
彼はまだ、ここにいる。
けれど、その肉体の中では──
皮膚の下で、何かが這っていた。
明確に、何か“別のもの”が存在している。
血液でも筋肉でもないものが、這い回っている。
ノクスの魔眼が見通すまでもなく、その動きははっきりと見えた。
息を呑む。
言葉にならない思考の断片が、頭の中で弾ける。
理解が追いつかない。
それでもこの体を、トーノのものだと認識してしまう自分が、何より苦しかった。
膝が砕けたように崩れた。
全身の力が抜ける。
魔力は尽きていた。
体力も、気力も、とうに限界を超えていた。
ノクス「……トーノ……」
掠れた声だけが、届かない誰かに向かって漏れる。
ノクスの瞳が揺れた。
乾いた睫毛の間から、かすかに涙がにじむ。
そして──彼は、そのまま静かに意識を手放した。
儀式の間に、二つの静かな影が並ぶ。
その一方。
“トーノであったもの”の胸が、わずかに上下している。
呼吸をしているのか。
それとも──それとは違う何かを、繰り返しているのか。
だが確かに、まだ“終わって”はいなかった。