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3-79

ノクスは走っていた。

破れた外套を引きずりながら、荒れた石畳を、ひたすらに。

夜が明けかけたエン=ザライアの空には、濃い鉛色の雲が重たく垂れ込めていた。



街の空気は変わっていなかった。

いや、むしろ――悪くなっていた。

闇が去りつつあるはずの朝に、少しも安堵がない。

その隠匿と怨念を含んだ空気が、ノクスの皮膚に冷たく張りつく。

その重さが、焦燥を焚きつける。



ノクス(……間に合ってくれ)



疲労と魔力の枯渇で、膝はもう限界を訴えていた。

だが、止まるわけにはいかなかった。



昨夜、玄宰の呪徒たちが強行突入したマルベラの家。

崩れかけた壁が、今も無残に穴を開けたまま、風にさらされている。

そこから覗く薄闇が、どこか異界に繋がっているかのように感じられた。



そして――中から漂ってくる、不吉な予感。



ノクスの呼吸は浅くなる。

だが、それでも足を止めることはしなかった。



崩れた壁を乗り越え、踏み入る。



家の中には血の臭いが漂っていた。

乾きかけた鉄の香りに、まだ濡れている温度の残った生臭さが混じる。

それでも、この家に満ちる異様な気配の正体は、すぐには掴めなかった。



ノクス(何かが――狂っている)



マルベラの寝室の扉の前に立つ。

この先に何があるのか、想像していたはずだった。

それでも、ノクスの喉は乾き、呼吸が一瞬、止まる。


扉を開けた。



ノクス「……マルベラ」



そこにいた。

ベッドに背をもたれかけ、静かに座るようにして倒れていた老女。

彼女の身体の下で、白い布団が赤黒く染まっていた。


胸元には、鋭い一突きの跡。

鋭く、確実に、迷いなく突き通した剣の一閃。



その形を、ノクスは知っていた。

それは、セラフの剣――



ノクス「……なぜ」



問うたところで、答えは得られないと分かっていた。

それでも口をついて出たのは、怒りではなく、哀しみだった。



分かっていた。

セラフの中にある“秩序”――ベルを中心とした、異形の規律。

それに従えば、この老女は“異分子”であり、“断罪”の対象だった。



何も抵抗の跡がない。

マルベラはただ、受け入れたのだ。

彼の剣を、自分に向けられた理由を、すべて。



ノクス(……おまえは、何を知っていた)



彼女の表情は、眠るように穏やかで――それがまた、ノクスの胸を深く抉った。


そして、ふと気づく。



この異様な気配は、ここからではない。

この部屋には、“死”がある。

けれど、“狂気”は、別の場所にあった。



ノクス「……トーノ?」



辺りを見回す。

彼の姿がない。



先ほどから気配を感じていたはずだった。

けれど、それはどこか遠く、深い井戸の底のように、意識の縁でかすかに揺れるだけだ。


不安が一気に膨れ上がる。




時間は、ノクスがまだマルベラの家に辿り着くよりも前のこと。



トーノは、動かなくなったマルベラの亡骸から離れられずにいた。

熱を失った彼女の手を、かすかに震える指先で握りしめる。



家の中には、マルベラの血の鉄臭い匂いと、トーノが彼女のために焼いていた焼き菓子の甘い香りがまだ残っていた。

絶望と日常の残り香が、まるで混ざり合いながら空間を満たしている。


それなのに、トーノの瞳からは一滴の涙も流れていなかった。

感情がどこかへ置き去りにされたような、そんな静けさがそこにはあった。



そんな彼の背に、ひどくよく知った声が落ちる。



玄宰「失敗作……ようやくお前が役に立つ時がきた」



背中が泡立つ。

聞き間違えようのない声。

かつてトーノを“失敗作”と呼び、ゴミのように切り捨てた男の声。



マルベラと過ごした穏やかな日々の中で、すっかり遠ざかっていた記憶が、怒涛のように押し寄せる。



トーノが初めて持った記憶。

それは、「失敗作」という言葉だった。

彼は、それが自分の名前だとすら思っていた。



――玄宰「自我を持っている……これでは私の器として使えない。そうだな……雑用にでも使えばいい」



そう言われ、彼は捨てられるその日まで、何かを作るその作業場で雑用として動き続けた。

機械のように物を運び、最小限の言葉と食事だけを与えられ、生きながらえていた。



マルベラに拾われてから、彼女は言ってくれた。



――マルベラ「それは、もう必要ない記憶だよ」



その言葉にすがるようにして、彼は過去を考えるのをやめていた。

忘れようとした。捨てようとした。




けれど今、玄宰の声が、封じていた傷口を容赦なく抉り出してゆく。



玄宰「失敗作、どうせこのままでは──やがて命の期限が尽き、お前は死ぬ」



その言葉に、トーノはゆっくりと振り返った。



そこにいたのは、蠢く肉の塊に無理やり貼りついたような、子どもの顔。

どこかで見覚えのある顔だった。

記憶の底から浮かび上がる──かつて玄宰のもとで雑用をしていた時、その少年の世話を任されたことがあった。



トーノはマルベラから教わった言葉と、微かに残る記憶を繋ぎ合わせて理解していた。

自分はこの男、玄宰の“器”となるために創られた存在だということを。

そらは人の形を保てなくなった者が編み出した策。



玄宰の魂を受け入れるために作られた肉体は、そもそも長く生きることを前提としていない。

命の灯火は最低限、玄宰の“不死の片鱗”と結びつくまで命が保てばよい──それが全てだった。

だから、トーノも“成功品”とされた金髪の少年も、どちらも自我を与えられず、命の期限も極端に短く設計されていた。



だが、トーノは異物だった。

本来は存在してはならない“自我”を宿して産まれてしまった失敗作。

そのため、完璧な器とはなれなかった。



金髪の少年は、“成功品”と呼ばれ、大切に扱われていた。

確かに、造形は美しく、欠けたところのない精巧な作りだった。

だが、瞳に光はなく、力も意志も宿っていない、ただの空洞。

トーノは、彼の無機質な瞳に、言いようのない恐怖を抱いていた。



やがて、玄宰がその少年の肉体に己を宿すための儀式を行い、

その後、トーノは用済みの不用品として捨てられた。



玄宰「お前が生き延びていたことは知っていた……だがようやく、その価値を果たす時が来た」



冷ややかな声が、空気を引き裂く。

その声は、トーノの過去を、マルベラと過ごした日々を、容赦なく否定していた。



玄宰の悍ましい姿が、ぬるりと這うようにトーノへと迫る。

だが、トーノの身体は動かなかった。



もし自分が反応すれば、玄宰はマルベラの亡骸を、再び利用するかもしれない。

彼女を囮にして、自分の気を引くために。

その可能性が、トーノを縛り付けていた。



せめて──

せめて、奪われた命を安らかに送りたい。

彼女の死を、玄宰の道具にはさせたくない。

それだけが、今のトーノの、かろうじて保たれた意思だった。



玄宰「大丈夫だ。その老婆……大切な存在を失ったお前の折れた心は、私の中で眠るだろう」



ぞっとするような響きで、玄宰は甘く囁く。

それはまるで、慈悲の仮面をかぶった悪意そのものだった。



トーノ「マルベラには、何もしないで……」



トーノは震える声で、必死に絞り出すように言った。

それは、懇願というよりも、心を削る叫びだった。


その瞬間、玄宰の“腕”とも呼べぬ、異様に膨らんだ肉塊が、ぬるりと動いてトーノの足を絡め取った。

温かくも冷たくもない粘膜のような質感。血も通っていなければ、筋肉の力も感じない。


ただ、ずるずると内側へ、内側へ──

“こちら側”に引きずり込もうとする、目的だけを持った肉の意志だった。


足首から脛へ、そして腿へと這い上がる異物は、皮膚と肉の境を曖昧にしながら侵入してくる。

拒絶する余地はなかった。

皮膚の内側で何かが泡立ち、血が膨張して破裂するような感覚。

骨と骨の間に別の骨が割り込んでくるような異常な重さ。

痛みではない。

理解すらできない“異質”が、身体の主導権を静かに奪っていく。



トーノ「――あ……」



トーノの唇が微かに動いた。

自分の声なのかすら曖昧だった。


指先がひとつ、ゆっくりと黒く染まる。

それはただの変色ではない。

色そのものが溶け、崩れ、別の“形”に作り替えられていく。

皮膚が裂けても、血は流れなかった。

代わりに、どす黒いゼリー状の組織が脈動し、何かを取り込むように震えていた。



トーノ「や、めて……」


心の奥で叫んだはずの声は、外に出ることはなかった。



“身体”が自分の命令を聞いていない。

“意志”の通り道が塞がれていく。

脳の深部に、誰か別の意識が入り込んでくるような、不快なざわめきが満ちていく。



自分が、“トーノ”が

──消える。



それは、死よりも深く、酷い喪失だった。

心の内側から、自分という名の記憶が、ひとつずつ色を失っていく。


けれど、意識の端で、たったひとつの想いが残っていた。



トーノ(……マルベラを、穢さないで)



かすれゆく意識の中で、トーノは最後の力を振り絞る。

せめて、玄宰と一つになりつつあるこの身体を、マルベラから離そうと。

彼女の眠る場所から──遠ざけようと。



床に散らばった蜂蜜の瓶の破片が、足元で砕ける。

それは、トーノがマルベラのために買った、たったひとつのささやかな贈り物だった。



踏みしめた破片は、皮膚を切り裂くはずだった。

けれど、痛みはなかった。



それはもう、“トーノ”ではない何かになり始めていたからだ。

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