3-78
夜の闇が去る少し前。
世界が息をひそめるように静まり返る、虚ろな時間。
場所は、灰色の影が蠢く《エン=ザライア》の広場。
ノクスは、ベルを包んでいた結界を破り、二人を転移符でエラヴィアの隠れ家へと送り出した。
その瞬間、体の奥底まで使い尽くされたように魔力が尽きる。
だが、二人を送り届けるだけの魔力がまだ残っていたことに、ノクスは安堵した。
この旅の中で、最も無力だった自分が、最後に二人を救うことができた。
その事実に、わずかな誇りすら感じていた。
しかし、背後に迫る気配は、空気を焼きつくすように熱を帯びていた。
振り返らずともわかる。それは、もはや人の域を越えた何かの気迫。
かつて対峙したときには、ベルの《死神の揺り籠》が共に自分を包み、守ってくれた。
だが今、そこには何の加護もない。
さらにその背後には、統率者を失った灰色の亡者たちが、まるで悪夢のように蠢いていた。
ノクスは、生き延びることを諦めたわけではなかった。
けれど、もはや策は尽きていた。
せめて――正面から、その終わりを迎えよう。
ノクスは、ゆっくりとその視線の先へと、振り向いた。
振り向いたその瞬間、赤褐色の瞳に射抜かれた。
身体強化の魔術を用いるとき、彼の瞳には赤い輝きが宿る――それは、かつて見たままの色。
死神に名前を預けた今のノクスのことを、彼は覚えていない。
そして、ノクスがセラフから感じ取った気配は、以前とはどこか違っていた。
その違和感の正体に気づく前に、セラフはふと足を止め、ノクスに背を向けた。
ちょうどそのとき、セラフの背後に迫りつつあった亡者の群れ。
セラフは静かに剣を構えると、迷いなく踏み出し、亡者たちの間へと身を投じた。
何が起こっているのか、ノクスにはわからなかった。
ただ、目の前で繰り広げられるその戦いに、彼は目を奪われていた。
あの狂気に満ちた男と、本当に同じ人物なのか。
彼の魔力には、今やどこか光に似た、聖なる気配すら感じられる。
セラフの剣は亡者を切り捨てていたが、それは力任せの破壊ではなかった。
むしろそれは、生を許されなかった存在たちへの――静かな、救いのように見えた。
ノクスはただ、戸惑いのままにその姿を見つめていた。
まるで、見知らぬ英雄譚の一場面を、傍観するしかない傍役のように。
亡者たちが全て倒れ、
あの場に立つ影がセラフとノクス、二人だけになったその時――
セラフの剣が動きを止めた。
周囲にはまだ蠢く肉片が残されていたが、彼の視線はただ一人、ノクスへと向けられる。
セラフ「――お前は」
静かに、短くそう口にすると、セラフは剣を鞘に収め、正面からノクスを見つめた。
セラフ「彼女を救うための行動をした」
その言葉に、ノクスは何も返せなかった。
目の前にいるこの男は、かつてベルに絶望の日々を与えた存在。
あの痛みも、恐怖も、狂気に染まった囁きも、ノクスの心に焼き付いている。
自らの身で追体験した、まるで現実に刻まれたかのような悪夢の記憶。
そして、ベルを取り戻すべく彼と相対した時、心の底から感じた己の無力さ。力の差。
今、目の前にいるのは、その呪徒たちを、あの支脈の守りを、たった一人で打ち倒した男。
ベルとナヴィと三人がかりでも届かなかった敵を、難なく殲滅したその圧倒的な力。
セラフ「……お前を斬るつもりはない」
セラフはそう言って、わずかに首を横に振る。
セラフ「そうしたところで、ベルがこの場に戻ってくるわけではない。そして彼女を救おうとした、その行動を、僕は責められない」
ノクスは言葉を失ったまま、ただその瞳を見つめ返す。
そこに赤い光も、かつて向けられた殺気も、もはや存在しない。
彼の瞳に映るのは――まるで神に仕える敬虔なる騎士のような気配。
静かで、清らかで、そしてどこか救いを願う者の目。
セラフ「我が神、ルクシアも……同じようにするだろう」
その名を聞いたとき、ノクスの中で何かがゆらぐ。
セラフはかつて神を信仰する、聖騎士の一人であった。
ノクスの脳裏に、ベルの記憶の中で見たセラフの背中が浮かぶ。
神に祝福された者にのみ刻まれる、神の名を讃え、その力を宿す紋章――
だがそれは、本来の形を失っていた。
《光と救済》の名を消し去り、
代わりに歪められた言葉が刻まれていた。
神の名を、救いの対象を、討つべき敵を、ベルへと書き換えていた。
彼はかつて、神を捨てた。
ベルを神と仰ぎ、狂気に身を委ね、祝福を穢し、信仰そのものを堕とした存在だった。
……なのに。
今ここに立つ彼は、
失ったはずの信仰と、光を纏うように静かにそこにいる。
なぜ。どうして。いつから。
それはノクスには分からなかった。だが――
心のどこかが告げていた。
この再会は偶然ではない。
自分がベルを縛る呪いの糸を断ち切るため、
ルクシアの力を持つものを求める旅へと出た時点で、
セラフと再び道を交えることは、避けようのない運命だったのだ、と。
セラフの声が、ふと柔らかく響く。
セラフ「僕も……彼女を救うべきだと、考えている」
その声は、
まるで恐怖に震える子どもを前にした母のように、静かで慈しみに満ちていた。
だが、それはノクスにとって、むしろ恐ろしい。
自分に向けられたその眼差しは、
過去にベルへと向けられていた――あの、歪んだ愛と、狂信に満ちた視線と同じものだったから。
セラフは続ける。
セラフ「……死神に与えられた、地獄の輪から彼女を解放する。あの祝福は……穢れだ」
その声には、徐々に陶酔が滲み、口調が熱を帯びていく。
静かな言葉の端に、狂気の温度が宿っていく。
セラフ「そして――」
瞳を細めながら、彼は言う。
セラフ「解放されたベルを、僕の手に。それこそが、真の救済だと……我が神も、そう仰っている」
ノクスの背に、冷たい汗が伝う。
ベルを救いたいという言葉の奥にあるのは、あの頃と変わらない欲望だ。
それでも彼の内には、明確な信仰が宿っているように見える。
神の名を掲げ、かつてのようにではなく、もっと深く、もっと正しく……歪んで。
ノクスはまだ言葉を返せなかった。
だが、その沈黙に対して、セラフは一歩、彼の前に進み出る。
セラフ「また、会うかもしれない」
その言葉を残して、セラフはふと穏やかに微笑む。
そして何の躊躇もなく、背を向けて歩き出した。
血の跡も、傷の痕もない。
あの激戦をくぐり抜けたとは到底思えないほど、彼の姿は整いすぎていた。
どこか現実から乖離したような、静謐で完璧なその後ろ姿が、かえってノクスの胸に冷たい恐怖を呼び起こす。
肉の生々しさを感じさせない、均整の取れた脚。
揺るがぬ足取り。
揺れるはずの感情が、皮膚の下に見当たらない。
セラフ「ベルと僕を結ぶ糸は、まだ残っている」
低く、しかしはっきりと響いた声。
振り返らぬその横顔の気配から、視線がどこにも向けられていないのが分かった。
彼は今、この場にはいない。
彼の眼は、彼の心は、彼の意識はすべて、彼の中に描かれたベルへと注がれている。
セラフ「まさか、あの老婆に……僕とベルの“運命の糸”を解けるなんて」
それはまるで、信じられないと呟くように。
あるいは、微かな苛立ちすら混じった悔悟のように。
セラフは、ノクスを振り返ることなく、静かに歩み去る。
最後に紡がれたその言葉は、独り言のようであったが――
確かに、ノクスの耳には届いていた。
ノクスは眉をひそめる。
その意味を理解するのに、時間はかからなかった。
ベルとセラフを結んでいた“糸”。
それを解いた存在は――一人しかいない。
ノクス(……マルベラ)
彼が“知っている”のだとしたら――そして、それに対して“何かをした”のだとしたら。
ノクス「……ッ」
軋む体を引きずるようにして、ノクスは立ち上がる。
冷たい風が吹き荒ぶ荒野の中で、ひとり、必死に体を支える。
すでにセラフの姿はどこにもなかった。
だが、その背後に残した言葉と気配だけが、重く空気に染みついていた。