3-77
それからしばらくして。
まるで大気そのものが怒りに震えるような、激しい突風が隠れ家を揺らした。
瞬間、空間が軋み、ひと筋の光が軌跡を残して掻き消える。
転移魔法の残滓。その中心に、エラヴィアが現れた。
外套を翻しながら、彼女は庭先に降り立つ。
そして――目に入ったのは、土の上に引きずられたような、赤黒く染みついた血の道。
その先にある扉に、胸をざわめかせながら駆け寄る。
扉を開ける。鼻を刺す、生々しい血の匂い。
すぐに視界が状況を飲み込んだ。
床に敷かれた毛布の上に、並んで横たえられた二つの身体。
血と泥と疲労にまみれ、痛々しいほどに弱りきっているベルとナヴィ。
そのどちらも、自力で動ける状態ではないのが見て取れた。
ベル――
その身体は、まるで獣に食い荒らされたかのようだった。
皮膚は裂け、肉は削がれ、指の関節や肋骨までもが露わになった箇所さえある。
身体のあちこちに、何者かの牙が深く突き刺さったような痕跡。
焼け焦げたような、黒ずんだ傷跡すら混じっていた。
だがその肉体は――遅々としてではあるが、確かに再生していた。
傷の縁がじくじくと脈打ち、赤い肉が静かに盛り上がり、肌の形を取り戻そうとしている。
まるで死を拒むかのように、あるいは死を越えてなお、存在し続けるために。
その回復の過程さえ、人ならざる異様さを孕んでいた。
ミィナの姿もあった。
懸命に処置をしていたのだろう。震える手が、まだベルの手を握っている。
それでも、一人では寝台まで運べなかったのだ。
彼女がここで、独りでこの地獄を抱えていた時間を思い、エラヴィアの胸に重いものが沈む。
そして何より、そこに――
ノクスの姿だけが、どこにもなかった。
エラヴィアの目がわずかに揺れる。
ノクス。
――かつてカイルと呼ばれていた青年。
ベルを助けたのは、あくまでギルドを抜けた身でありながら、エラヴィアの個人的な依頼に応じただけ。
彼はこの旅の本質からすれば、最も自由で、最も危うい立場にいた。
そして何より、彼の“気配”だけが……あまりにも希薄だった。
彼女の風の届かない場所に去ったのか、それとも。
エラヴィアにとってそれは祈るような日々だった。
風が語る何の兆しも掴めず、ただミィナと共に、三人の帰還を信じて待ち続けた。
エラヴィアはゆっくりと膝をつき、ベルの顔に触れる。
その表情に浮かぶのは、安堵でも怒りでもない。
ただ――言葉にならぬ、深い悔いのようなものだった。
エラヴィア「……ごめんなさい」
その一言は、吐き出すというより零れ落ちるように、エラヴィアの唇からこぼれた。
ミィナ「エラヴィア……二人が……ノクスが……」
ベルとナヴィの手当てに集中していたミィナが、ようやくエラヴィアの到着に気づいた。
張り詰めていたものが切れたように、ぽろぽろと大粒の涙を流し始める。
それは嗚咽ではなく、ただ静かに溢れる悲しみのしずく。
見ていたエラヴィアの胸にも、締めつけるような痛みが走った。
エラヴィア「ごめんなさい、ミィナ……本当に……」
声はかすれ、苦しみに滲んでいた。
この隠れ家に――この少女に――あまりにも辛い役割を背負わせてしまったこと。
感謝と同じ重さで、深い悔恨が胸を満たす。
エラヴィア「ナヴィの様子を見ていてあげて。ベルは、私が……」
ミィナが小さく頷く。
エラヴィアはナヴィの傍に膝をつき、その顔と手に目をやる。
彼の手は、今も魔力の痕に焼かれたように爛れていた。
自分の魔力を制御しきれず傷つけてしまったのか、それとも……
分からない。ただ、その痛々しさが胸に突き刺さる。
エラヴィアは、その手を一度だけしっかりと握った。
そして、ベルのもとへ向かう。
彼女を慎重に抱き起こすと、その体は驚くほど――軽かった。
血も、肉も、生命すらも削ぎ落とされたような、恐ろしいほどの軽さ。
けれどエラヴィアは知っている。
この光景を、何度も目にしてきた。
旅の中で、ベルは常に自らを盾にしてきた。
誰よりも前に立ち、傷つくことを厭わず、血を流すことを当然のように受け入れていた。
そして時に、耐えがたい暴力や理不尽に晒されたとき――
彼女は感情を殺し、意識を内に閉ざすことで乗り越えた。
それが、彼女が「永遠」に適応するために身につけた、唯一の生き延びる術だった。
だが――
エラヴィア(……だからといって、ベルがこんな目に遭っていいはずがない)
エラヴィアの心に怒りが湧く。
ベルをこんな存在にしたもの。
死を越えてなお戦い続ける定めを与えた、死神という存在に。
エラヴィア(……これが貴方が、ベルに与えた“愛”なの……?)
エラヴィアは見えない空に問いかける。
声は届かず、応えもない。
けれどその胸に、ひどく冷たいものが沈んでいく。
かつてこの世界の理から零れ落ちた少女を、いったい何が、誰がここまで追い詰めたのか。
以前エラヴィアはベルが死神の目の届かない場所に連れ去られた際、彼女を救うためその爪を託された。
その時の咎で現世への干渉を封じられたのが、それとも今回のベルの惨事は彼にとっては取るに足らない出来事なのかエラヴィアには分からなかった。
エラヴィアはベルの傍に膝をつき、その細い体をそっと床に横たえる。
目を閉じ、深く息を吸い込んだ。
エラヴィア「風よ、空の名を戴きしものよ、揺らぐ枝葉に宿る命の囁きを、我が身へ。
この身の内に流れる痛みを、分かち合うことを赦し給え。
傷を――命を――苦しみを、共に歩むために」
囁くような詠唱が、静かに部屋を満たしていく。
その声はやさしく、けれど確かな決意を孕んでいた。
魔力が空気を震わせ、風のように流れ、渦を巻く。
エラヴィアは風の魔力を持つ魔術師。
本来、回復や聖なる術は彼女の領分ではない。
だからこの魔法は異端だ。風の力を媒介にして、彼女が無理やり作り上げた、ただ一つの祈り。
ベルには回復の魔法が効かない。
それは、不死の性質だった。
肉体は再生する。
だが、その過程に魔法の介入は一切拒絶される。
癒しの術も、神の奇跡も、ベルの身体には届かない。
だから、エラヴィアができる唯一の癒しはこれだった。
“ベルの痛みを、己に引き受けること”。
その術を、彼女は旅の果てに見出し、身に刻んだのだ。
エラヴィア「……どうか、その痛みを。我が身にも……」
詠唱の終わりとともに、術が発動する。
次の瞬間、エラヴィアの全身を灼熱の痛みが貫いた。
皮膚が裂け、骨が軋み、血が逆流するような激痛。
それは、今まさにベルが感じている痛み。
彼女が耐えている地獄を、半分――自分の身に移す魔法だった。
エラヴィア「……ッ、く……」
苦悶の声が漏れる。
視界が歪み、肺が焼けつくように苦しい。
だが、それでもエラヴィアはその手を離さない。
ベルの頬にそっと触れ、その熱を感じながら微笑む。
どれほど彼女を救えているのかはわからない。
だが、エラヴィアにできるのはこれだけだった。
不死であるがゆえに、誰にも癒されることのない少女。
その痛みの孤独に、たったひとつ寄り添える方法が、これだった。
この痛みは、罰なのだとエラヴィアは思う。
ナヴィを、そしてノクスを――三人をあの呪われた地へ向かわせたのは、自分だ。
だからこの痛みは、自らが負うべき咎。
償いにすらならなくとも、せめて――この痛みだけは、自分のものに。
――そして。
人の形を留めているとは言えないベルの瞼が、かすかに動いた。
エラヴィアの胸に、言葉にならない安堵が広がる。
それだけで、痛みなどどうでもよかった。