3-76
夜の気配が、かすかに薄らぎ始める頃。
まだ目覚めには早い時間帯。けれど、早朝の朝露にしか咲かない花の蜜を集めるため、ミィナはゆっくりと寝床から体を起こした。
外へ出る支度を始める。
地上から遠く離れた、木の枝に築かれたこの箱庭のような隠れ家には、風のささやきと鳥の囀りだけが満ちている。
静かで、穏やかで、守られた聖域。
――その静寂を、魔力の揺らぎが破った。
微かに漂う気配。
続いて、何かが倒れ込むような音。
それは、隠れ家のすぐ外から聞こえてきた。
感じたことのある魔力だった。
この隠れ家はエラヴィアの魔力で守られている。容易には侵入できない。
だからこそ、不安はなかった。
けれど――その気配は、あまりにも弱々しかった。
ミィナは、弾かれたように身を翻し、外へと駆け出す。
ミィナ「……!」
そこで目にしたのは――
あの日、自らの手で送り出した少女、ベル。
そして、エラヴィアの側近として何度か顔を合わせたことのある、竜人の青年・ナヴィの姿だった。
ミィナ「ベル、ナヴィ!」
駆け寄るミィナの視界に飛び込んだのは、見る者の心を強く揺さぶる異様な光景だった。
二人の傍ら、地面には半ば崩れた魔法陣の痕跡のある転移符が、煤けたようにかすれて消えかけている。
微かに残る魔力の余韻。
その中には、もう一人の彼の気配が存在していた。
恐らくこの転移符を動かしたのはノクスだ。
だが、その姿は、どこにも見えない。
ミィナ「ノクス……?」
名を呟いたその時、ミィナの呼吸が止まる。
まず目に入ったのはナヴィ。
人間と見た目は変わらぬ青年だが、竜人族特有の頑強な体と魔力の耐性を持つ。
それにも関わらず、今の彼は、まるで骨の芯まで砕かれたかのように崩れ落ちていた。
衣服のあちこちが裂け、血と灰にまみれている。
手足は不自然に伸びたまま力なく投げ出され、体表には裂傷と打撲、そして自らの冷気の魔力が身を凍らせた痕がまだ燻っていた。
その隣。
ベル――彼女の姿に至っては、もはや形容する言葉を失う。
彼女の体を包んでいた布は、もはや染みではなく、赤に染まりきって元の色を留めていない。
そこから露わになった肌は、ほとんどの箇所で無傷な部分が見つからないほどだ。
だが、ただの斬撃や魔術による損傷とは異なる。
腹部や肩、太腿など、いくつかの傷口は――
まるで何者かに噛み千切られたかのように、肉ごと抉れ、裂けていた。
不揃いで、荒々しく、牙によって肉を断たれた痕。
細く尖った何かに突き刺されただけではない。
肉が引き裂かれ、骨ごと削られたその痕は、何か異形の“捕食する存在”の存在を想起させる。
ベルの不死の力は、それらの損傷をゆっくりと、しかし確実に修復していた。
だが、その再生はどこか不安定で、まるで魔力の深層が狂い始めているかのようだった。
肉が再生する傍から再び破れ、再構築された骨が軋みを上げて砕ける――
彼女自身の体が、自壊と回復を繰り返しているように見えた。
ミィナ「こんな……」
思わず声に出すと、喉が詰まった。
不死であるベルがここまで傷つき、
竜人族のナヴィが意識を失うほどの負荷を背負い、
それでもここに辿り着けたのは、まさに奇跡だった。
だが――
この転移を導いたであろうノクスの姿が、どこにもない。
"普通の人間"である彼が、どこへ行ったのか。
ミィナの胸に、ぞわりと冷たい恐怖が這い上がった。
ミィナは、胸を締めつけるような恐怖を振り払うように、強く頭を振った。
考えるよりも、動くこと。今はそれしかできない。
この隠れ家は、エラヴィアの結界に守られている。
――ならば、この二人がここに辿り着いたことも、彼女にはすぐに伝わっているはずだ。
じきに彼女が現れる。けれど、それを待つ間にも、この二人は静かに命を削られていく。
ミィナ「まずは……中へ……」
ミィナはベルを包んでいた布にそっと手を伸ばした。
だが、その指先が赤に染まりきった布に触れた瞬間、記憶の底から何かが這い上がる。
何年か前。
エラヴィアと出会うきっかけとなった、あの日。
この森の奥で出会った、黒い影。
理屈ではなく、本能が恐れた、“異質”そのものの存在。
今、ベルの身体を包む布から漂う気配は、それと同じだった。
同じ……けれど、どこかが決定的に違う。
まるで、何か作りなおされたような、異なる“重なり”。
矛盾する気配に、ミィナの心は乱される。
それでも、彼女は自らの体が血に濡れていくのを気にも留めず、静かに、けれど確かな動きで、ベルを抱き上げた。
ミィナ「大丈夫、大丈夫だから。もうすぐ、エラヴィアも来てくれるからね」
その言葉は、ベルにではなく、自分自身に向けた祈りのようだった。