3-75
ノクスは、何かを決意したように静かに立ち上がった。
そして呟くような、けれど確かな声で、ナヴィに小さく「ありがとう」と告げる。
その瞳には、迷いのない決心の光が宿っていた。
狂乱と喧騒の中心から外れた場所。
ベルは、あたかも唯一の安息を許されたかのように、静かに地に横たえられている。
その身を包むのは、淡く光を帯びた聖なる結界。
そこに忍び寄る灰色の影。
影のひとつが結界に手を伸ばす――だが触れた途端、焼かれるように光に弾かれ、その形を崩した。
すぐさま別の影が伸びる。
無数の手が、飢えたように、彼女へと伸びる。
ナヴィが動いた。
影の群れを牽制するように剣を抜き、素早く、無駄のない軌道で振るう。
鋼の閃きが灰を裂き、結界の周囲にわずかな空白を生み出す。
その隙に、ノクスが結界へと歩み寄る。
そして、迷わずその手を伸ばした。
本来、それは触れるべきものではなかった。
聖と呪が重なるような熱、触れる者を拒む、保護と独占が入り混じった魔力の意志が、結界には確かに宿っていた。
ノクスの手のひらが結界に触れる。
じわじわと焼けていく。
皮膚が焦げ、肉が熱に軋む。
それでも、彼は離さなかった。
直に触れることで、彼は“読み取る”。
かつて――ベルの記憶を追体験したあの時。
彼女が感じていた、狂気と愛が混ざり合った想い。
世界を閉ざし、他のすべてを拒み、ただ一人を独占しようとする、渇きのような魔力。
この結界も、まさにそれだった。
ノクス「……わかった」
ノクスは、焼けつく痛みに顔色ひとつ変えず、静かに呟く。
そして、結界の継ぎ目を探るように、指先から魔力を這わせ始める。
崩すのではなく、寄り添い、解き明かし、溶かしていくように――
まるでその想いに、応えるかのように。
セラフと玄宰の戦いは、なお続いていた。
だが、その終焉は確実に近づいていた。
戦場を駆けるたびに、セラフの纏う白衣がほんのわずかに灰塵に染まる。
それに対し、玄宰の肉体は既に人の形を保てていなかった。
伸びすぎた四肢は痙攣し、皮膚の裂け目からは蒸気のように黒煙が漏れ出す。
その顔にはまだ“少年”の歪んだ笑みが張り付いていたが――それはもはや仮面のように凍りついていた。
玄宰は知っていた。
このままでは、じわじわと焼き尽くされる。
あの炎に、熱に、清らかな残酷さに。
玄宰「私の全てが焦がされていく……だが狂気は逆に私の刃を冴えさせる……」
決死の思いで研ぎ澄ませた一撃の機を、玄宰は待っていた。
そして――セラフの動きに、わずかな“隙”が生じる。
ほんの瞬きの間。
だが、玄宰にはそれで充分だった。
地面を抉るように足を踏み込み、獣のような体勢から跳躍。
鋭く変異した爪が閃き、渾身の力を込めてセラフの心臓を狙う。
灰と血と悲鳴の中で、確実に届く――そう思った。
だが、それは“誘い”だった。
セラフは視線を逸らしたまま、ほんのわずかに身体を傾け、
その手に携えた剣を、静かに、しかし容赦なく振り上げた。
玄宰の動きが止まる。
肉が裂け、骨が砕け、空中でその体がねじれる。
血飛沫が空に咲く。
まるで、“そうする意味すらない”とでも言わんばかりの無表情。
セラフは一瞥すら与えず、静かに切り上げた。
宙に舞う残骸が、重力に従って地に崩れ落ちる。
倒れ伏した玄宰の体が、ぴくりとも動かない。
その瞬間――
灰色の影たちがざわめいた。
同調していた者たちの動揺が、空気を震わせる。
それは恐怖か、怒りか、哀れみか。
セラフは彼らを見ない。
ただ、倒れた玄宰の骸を見下ろし、
その眉にわずかに哀れみの色を宿す。
「――終わりだ」
そう呟いた時、セラフの感覚が揺れた。
視線を動かす。
彼の視線の先――結界に、誰かが触れている。
焼けるような魔力に触れる別の気配。
聖と呪の狭間をなぞるような気配。
ノクスは、必死だった。
この場所は、外縁に近く、魔力の影響がまだ幾分か薄い。
だが、それでも歪みすぎている――
結界の術式を読み解き、その縫い目を解きほぐすような繊細な作業には不向きだった。
魔力の干渉を抑えるために装着していた魔道具の腕輪が、きしむような音を立てる。
限界は近い。
それでも、ようやくノクスの指先が術式の綻びに触れた瞬間――
焼けつくような視線が、背を貫いた。
振り返るより早く、視界の隅に映る。
切り上げられた玄宰の体が宙を舞い、地面に落ちる音。
そしてセラフが、地面を蹴って踏み出した。
灰色の砂埃が舞い上がる。その中心に立つ彼の瞳が、まっすぐノクスを射抜いている。
「――来る……!」
ナヴィが、ノクスとセラフの間に立ち塞がる。
疲弊しきった身体に鞭を打ち、剣を構えるその手がわずかに震えていた。
既に魔力は限界を迎えていた。それでも剣に冷気をまとわせる。
しかし、その眼には明らかな恐怖の色が浮かんでいた。
ナヴィの氷の魔力すら焼き尽くす、あの黒い炎の熱。
魔力の格が違う――本能がそう告げていた。
「ナヴィ!」
ノクスが叫ぶ。
その声に振り向いた彼の背後で、ベルを包んでいた結界が、
静かに、しかし確かに――溶けるように霧散していく。
成功――だが、間に合うか。
ノクスは素早くナヴィの手を掴み、力強く引き寄せる。
その顔には、焦りとも違う、確かな微笑が浮かんでいた。
「え……?」
ナヴィが問いかけるよりも早く、世界が揺れる。
重力が崩れ、空気が引き裂かれ、魔力の波が収束する。
最後に彼の目に映ったのは――
ノクスの手に握られた、転移符。
その符に注がれたノクスの魔力が、
沈黙のように、静かに発動していく。
そして、世界は、砕けるように、塗り替わった――。