表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
166/322

3-75

ノクスは、何かを決意したように静かに立ち上がった。

そして呟くような、けれど確かな声で、ナヴィに小さく「ありがとう」と告げる。

その瞳には、迷いのない決心の光が宿っていた。


狂乱と喧騒の中心から外れた場所。

ベルは、あたかも唯一の安息を許されたかのように、静かに地に横たえられている。

その身を包むのは、淡く光を帯びた聖なる結界。

そこに忍び寄る灰色の影。

影のひとつが結界に手を伸ばす――だが触れた途端、焼かれるように光に弾かれ、その形を崩した。

すぐさま別の影が伸びる。

無数の手が、飢えたように、彼女へと伸びる。


ナヴィが動いた。

影の群れを牽制するように剣を抜き、素早く、無駄のない軌道で振るう。

鋼の閃きが灰を裂き、結界の周囲にわずかな空白を生み出す。


その隙に、ノクスが結界へと歩み寄る。

そして、迷わずその手を伸ばした。


本来、それは触れるべきものではなかった。

聖と呪が重なるような熱、触れる者を拒む、保護と独占が入り混じった魔力の意志が、結界には確かに宿っていた。


ノクスの手のひらが結界に触れる。

じわじわと焼けていく。

皮膚が焦げ、肉が熱に軋む。

それでも、彼は離さなかった。


直に触れることで、彼は“読み取る”。

かつて――ベルの記憶を追体験したあの時。

彼女が感じていた、狂気と愛が混ざり合った想い。

世界を閉ざし、他のすべてを拒み、ただ一人を独占しようとする、渇きのような魔力。


この結界も、まさにそれだった。


ノクス「……わかった」

ノクスは、焼けつく痛みに顔色ひとつ変えず、静かに呟く。

そして、結界の継ぎ目を探るように、指先から魔力を這わせ始める。


崩すのではなく、寄り添い、解き明かし、溶かしていくように――

まるでその想いに、応えるかのように。


セラフと玄宰の戦いは、なお続いていた。

だが、その終焉は確実に近づいていた。


戦場を駆けるたびに、セラフの纏う白衣がほんのわずかに灰塵に染まる。

それに対し、玄宰の肉体は既に人の形を保てていなかった。

伸びすぎた四肢は痙攣し、皮膚の裂け目からは蒸気のように黒煙が漏れ出す。

その顔にはまだ“少年”の歪んだ笑みが張り付いていたが――それはもはや仮面のように凍りついていた。


玄宰は知っていた。

このままでは、じわじわと焼き尽くされる。

あの炎に、熱に、清らかな残酷さに。



玄宰「私の全てが焦がされていく……だが狂気は逆に私の刃を冴えさせる……」


決死の思いで研ぎ澄ませた一撃の機を、玄宰は待っていた。


そして――セラフの動きに、わずかな“隙”が生じる。


ほんの瞬きの間。

だが、玄宰にはそれで充分だった。


地面を抉るように足を踏み込み、獣のような体勢から跳躍。

鋭く変異した爪が閃き、渾身の力を込めてセラフの心臓を狙う。

灰と血と悲鳴の中で、確実に届く――そう思った。


だが、それは“誘い”だった。


セラフは視線を逸らしたまま、ほんのわずかに身体を傾け、

その手に携えた剣を、静かに、しかし容赦なく振り上げた。


玄宰の動きが止まる。

肉が裂け、骨が砕け、空中でその体がねじれる。

血飛沫が空に咲く。

まるで、“そうする意味すらない”とでも言わんばかりの無表情。

セラフは一瞥すら与えず、静かに切り上げた。


宙に舞う残骸が、重力に従って地に崩れ落ちる。

倒れ伏した玄宰の体が、ぴくりとも動かない。


その瞬間――

灰色の影たちがざわめいた。

同調していた者たちの動揺が、空気を震わせる。

それは恐怖か、怒りか、哀れみか。


セラフは彼らを見ない。

ただ、倒れた玄宰の骸を見下ろし、

その眉にわずかに哀れみの色を宿す。


「――終わりだ」


そう呟いた時、セラフの感覚が揺れた。

視線を動かす。

彼の視線の先――結界に、誰かが触れている。


焼けるような魔力に触れる別の気配。

聖と呪の狭間をなぞるような気配。


ノクスは、必死だった。


この場所は、外縁に近く、魔力の影響がまだ幾分か薄い。

だが、それでも歪みすぎている――

結界の術式を読み解き、その縫い目を解きほぐすような繊細な作業には不向きだった。


魔力の干渉を抑えるために装着していた魔道具の腕輪が、きしむような音を立てる。

限界は近い。

それでも、ようやくノクスの指先が術式の綻びに触れた瞬間――


焼けつくような視線が、背を貫いた。


振り返るより早く、視界の隅に映る。

切り上げられた玄宰の体が宙を舞い、地面に落ちる音。

そしてセラフが、地面を蹴って踏み出した。

灰色の砂埃が舞い上がる。その中心に立つ彼の瞳が、まっすぐノクスを射抜いている。


「――来る……!」


ナヴィが、ノクスとセラフの間に立ち塞がる。

疲弊しきった身体に鞭を打ち、剣を構えるその手がわずかに震えていた。

既に魔力は限界を迎えていた。それでも剣に冷気をまとわせる。

しかし、その眼には明らかな恐怖の色が浮かんでいた。


ナヴィの氷の魔力すら焼き尽くす、あの黒い炎の熱。

魔力の格が違う――本能がそう告げていた。


「ナヴィ!」


ノクスが叫ぶ。

その声に振り向いた彼の背後で、ベルを包んでいた結界が、

静かに、しかし確かに――溶けるように霧散していく。


成功――だが、間に合うか。


ノクスは素早くナヴィの手を掴み、力強く引き寄せる。

その顔には、焦りとも違う、確かな微笑が浮かんでいた。


「え……?」


ナヴィが問いかけるよりも早く、世界が揺れる。


重力が崩れ、空気が引き裂かれ、魔力の波が収束する。

最後に彼の目に映ったのは――

ノクスの手に握られた、転移符カルセリス


その符に注がれたノクスの魔力が、

沈黙のように、静かに発動していく。


そして、世界は、砕けるように、塗り替わった――。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ