3-74
血の染みた地に、聖なる足音が刻まれる。
セラフは無言のまま、一歩を踏み出す。
彼の瞳は燃えるように静かだった。激情ではない。
セラフ「これは贖いだよ。君たちの、そして僕の――ベルを汚した、すべての罪に対する。」
それは、天の秩序が人の罪を見つめるような、透き通る怒り。
剣が風を裂くたび、灰色の呪徒が呻き、崩れ落ちる。
セラフ「その身に刻め。ベルを貪ろうとした代償を、魂の奥底まで。」
彼らの肉は再生せず、聖なる炎に焼かれた傷は灰となって残るだけ。
灰色の影はその炎を避けるように蠢き、セラフに近づくことを恐れている。
だが、その中心にいたひとつの影――
金髪の巻き毛を揺らしながら、少年の姿の“それ”は、笑っていた。
玄宰「お前が誰かは知らないが……いや、知らないままでいい。
突然現れて、挨拶もなく剣を振るうとは――実に無粋だな。
ここは我らの欲望が紡ぐ舞台だ。
遅れてきた役者が、主役の座を奪えるとでも?」
声は若い体に似つかわしくない。
老練な話術と濁った響きが、言葉に異様な重さを与える。
彼――玄宰は、ゆらりと近づく。
足元で蠢く呪徒の肉片を踏みつけながら、顔を上げた。
玄宰「彼女は赦されぬ者だ。
その不死、その魔力、その血――すべてが我らを呪縛した。
ならば、贖え。
我らの飢えで、その罪を喉元から洗い流させてやる。
……そこを退け。これは、彼女に課せられた務めだ。」
セラフの眼差しに揺らぎはない。
その瞳が見つめるのは、言葉でも、姿でもない。
――いくつもの絡み合った魂の穢れだけ。
セラフ「……誰か一人でも、彼女に触れてよいと思ったか。
その美しさも、苦しみも、血も、命さえも僕のためにある。僕だけのために。
欲望を語るなら、死の炎で焼かれてからにしろ。」
剣が、静かに掲げられる。
祝福の光が刃に灯り、周囲の影が消し飛ぶ。
玄宰はそれを見ても笑ったまま。
その表情に、かつてこの都市の機構を愛し、科学に殉じた者の面影はない。
彼の笑みに、次第に歪みが滲む。
玄宰「我々を滅すか?あの娘を奪い返す? ――滑稽だ」
その身に渦巻く呪いが、少年の肉体を蝕み、膨れ上がっていく。
皮膚の下を這う血管が黒く染まり、目の奥には人外の輝きが灯る。
セラフ「やってみろ、狂信者。我が悦楽と、貴様の信仰と、どちらが深いか――確かめてやろう」
地に広がる灰影は、まるで嵐の前にざわめく森のように不気味な鼓動を刻んでいた。
その中心――変異した玄宰の肉体から、獣のような熱を帯びた息遣いが漏れる。
隆起した筋肉は人の形を模した殻に過ぎず、その隙間から金色の巻き毛が覗いている。
腕から伸びた爪は次第に形を変え、骨と金属が混ざり合ったような鈍い輝きを帯びながら、より禍々しい殺意を帯びていく。
だが、まだ少年の輪郭を残す顔だけは崩れていない。
――否、崩れていないがゆえに、恐ろしい。
その笑みは歪みきっていた。
肉の仮面をかぶった悪意そのもの。
あれはもう、人ではない。
次の瞬間、戦いが始まる。
セラフの剣が空を斬り裂き、白い光を閃かせるたびに、玄宰の肉が断たれ、焼け、灰が舞う。
だが、それは終わりなき攻防の一部に過ぎなかった。
玄宰「……素晴らしい。まるで刃を交えるたび、君という存在の核心に触れられる気がする。
熱く、深く、恐ろしく純粋だ……まるで燃える地の底に沈んだ愛。
ああ、嫉妬してしまいそうだ――ベルに、ではなく、君のその狂気に。」
玄宰は傷を負いながらも、その度に笑う。
裂けた皮膚の奥から黒く蠢く筋肉が再生を試みる――が、
その動きはどこか鈍い。
セラフの刃に宿る聖なる光が、玄宰の再生を拒絶していた。
焼け残った肉は癒えず、灰が皮膚の上で固まり、崩れ落ちる。
玄宰の笑みが、かすかに歪む。
玄宰「……これは、いい。君は、僕を壊せるのか?
ならば、それを証明してみせろ。
僕の魂が果てるその瞬間まで――踊ろうか、白き騎士よ。」
二人のぶつかり合いのなかで、影はじりじりと距離を取りながらも広がる。
生者と死者、その中間の存在たちがうめき声をあげてうずくまる。
玄宰の手がそのうちの一体の喉を断ち、血をすする。
次々と、同士を、同胞を。
その様子はまるで獣の王。
玄宰「大丈夫……みな戻るさ。ベルを取り戻せば、私は完全な不死へと至り、
お前たちもまた完璧なかたちへ生まれ変わる。
それまでの間――私の力となれ、我が血肉よ……!」
その声に、呪徒たちが呻くように応える。
苦痛とも狂気ともつかない音が、共鳴のように重なっていく。
その騒乱の外縁。
眩むような熱気と狂気の中心から一歩退いた場所。
ノクスは膝をついたまま、動けずにいた。
彼の目は何も映さす、意識も空白に沈んでいる。
ナヴィ「……ノクス!」
冷えた鋭さを持つ声が、その中で唯一、現実を貫いた。
いつもの冷静さは、そこにはなかった。
ナヴィの声には、抑えきれない焦燥と怒りがにじむ。
ナヴィ「……ベルを救えるのは、今しかない」
その呟きは、静かで、それゆえに重かった。
だが次の瞬間には、声に熱が宿る。
ナヴィ「エラヴィアが言っていた。
お前は、魔力の解読に長けていると。
あれを解けるのは、お前しかいない!」
視線は鋭く、ベルを包む白い光の結界へと向けられる。
ナヴィの睨む先には、命の境界線があった。
ノクスの肩が微かに揺れる。
だがその瞳はまだ、どこか遠くを彷徨っている。
ナヴィの足音が、乾いた地面を踏み鳴らす。
彼は一歩、そしてもう一歩踏み出し――ノクスの胸倉をつかんだ。
ぐっと引き寄せ、顔を近づける。
吐き出すように、だが確かに言葉を絞り出す。
ナヴィ「お前は……ベルを守り、導くためにここにいるんだろう」
静かに、けれどその言葉には刃のような鋭さがあった。
ナヴィ「――違うのか、ノクス・アスフォデルム」
死神ルーヴェリスがベルを救う旅のために与えた名前。
その言葉が、深く、迷いを削ぎ落とすように響いた。