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3-73


白銀の外套が揺れる。

影は彼女の傍に膝をつき、震える手で頬に触れる。



指先は慎重すぎるほどに丁寧で、今にも砕けてしまいそうなものを扱うための、狂おしいまでの慎重さを宿していた。

そして彼は、彼女を抱き上げた。



血に濡れた少女と、穢れなき白銀の男。

その対比は、あまりに異様で、あまりに神聖。



しかし、それは何故か狂っていた。



彼の顔に浮かぶのは、異様な恍惚。

口元はわずかに弛み、唇がゆっくりと震える。

目元は熱に浮かされて赤く滲み、何かに酔ったように細められている。


吐息は深く、濡れていて、甘やかな気配を帯びていた。

そのすべてが、たった今この瞬間、彼がこの世の何よりも幸福を手にしているのだと雄弁に物語っていた。



「嗚呼……ようやく、また君に触れられた」



囁きは、神への祈りのように静かだった。

けれど、そこに宿るのは救いでも、愛でもない。

ただ、狂信と執着、そして底知れぬ歓喜だけ。



その声に、少女は何の反応も返さない。

ただ、彼の腕の中で、血に染まった小さな命が、儚く静かに横たわっていた。




その姿に、ノクスは息を呑む。

そして――呟いた。



ノクス「……セラフ」



ノクスは、立ち尽くしていた。



血の匂いと、腐臭と、焼け焦げた空気の中。

その白銀の影が誰なのか、理解した瞬間、喉が凍りついた。

忘れようとしても、忘れられるはずがなかった。

誰よりもベルを求め、手に入れ、壊し、愛した存在。

その名を口にせずとも、その狂気は空気を染めていた。



あの夜。

彼からベルを引き剥がすために、ノクスはすべてを懸けた。

彼女を“あの男”の呪いから解放するために。

命さえも惜しまなかった。




――そして、この旅もまた、同じだった。




ベルが彼の残滓から自由になるための逃走。

過去を断ち切るための、戦いの道だった。



なのに。



今、彼女を救ったのは、自分ではなかった。

その腕に抱かれているのは、かつて彼女を縛り、壊した男。

ベルのすべてを手に入れようとした、呪いそのもの。



呪徒に飲まれかけていたベルを今、その“闇”が、まるで聖者のように抱きしめている。

血に濡れた彼女を宝石のように扱い、

壊れぬようにと触れるその手は、慈しみに満ちていた。



それは救いに見えた。

けれど、それが許せなかった。

わからなかった。

なぜベルを縛ったその存在にしか、彼女は救えなかったのか。



そしてノクスは、ただ立ち尽くしていた。



怒りは、もうどこにもなかった。

嫉妬も、悔しさも、とうに過ぎた。



彼はただの無力な傍観者だった。

“救う”という言葉の外側に、立たされたままの、

哀れな、敗者だった。




セラフは、揺らめくような動作でベルの身体を抱き起こす。

自身の外套を広げると、その身を包み込むように静かに横たえさせた。

その動きは優雅で、まるで聖職者が祭壇に聖遺物を納める儀式のようだった。


血で汚れた地面に、ベルの身体が触れぬよう。

どこまでも穢れを遠ざけるように。

外套から零れた光が、地に触れることなく宙に結界を張り巡らせ、

瞬く間に聖なる帳が彼女を覆った。



まるで、神の光に選ばれた者のように――

その内側だけが、汚れなき静寂に満たされていた。



セラフの視線が、ゆっくりと持ち上がる。



周囲を取り巻く呪徒たち。

腐肉の臭気を纏い、四肢を引きずり、涎を垂らしながら蠢く。

ベルの血を味わった者たち。

彼女の傷口に指を這わせ、その体温を貪ろうとした、冒涜の群れ。


その全てに、セラフは憎悪を孕んだまなざしを向けた。



口元には微笑のような形が浮かんでいたが、

その瞳の奥には、焼き尽くすほどの狂気が宿っていた。



かつて、セラフは神を捨てた。

神に失望したのではない。

彼はベルに出会ったことで、信仰の名を借りた愛を育んだ。

その愛がやがて歪み、彼女に手を伸ばすように呪いという深淵へと、自らの身を堕とした。



それは祈りではなかった。

執着であり、欲望であり、罪にも等しい歪んだ愛だった。



その果てにベルを失い、彼に残されたものは罪と喪失で軋む壊れた心のみ。


けれど、絶望の底で差し伸べられた“光”があった。

彼の全てが崩れ落ちた、その瞬間に。

かつて捨てたはずの神が、なお彼を見放さなかった。



神は語らずとも、赦した。

セラフの魂は再び、聖なる炎に焼かれた。

罪を抱えたまま、彼は“信仰”に還った。



その信仰は、もはや敬虔とは呼べない。

それは以前よりも遥かに強く、深く、危うい。

堕ちた者すら包み込む、際限なき救いの光。

神と、ベル。

ふたつの“救い”に向けられた、狂信的な愛。



その祈りは剣に宿り、

その剣が、いま再び地に降りる。



セラフ「……お前たち如きが這い寄るなど、許されない」


彼の手に握られたその剣が、一閃した。



灰色の呪徒たちは悲鳴をあげる暇もなく、断ち斬られ、砕け、崩れた。

身体はすぐに再生を始める――はずだった。


だが、セラフの剣にかかった傷は、異様なほどに癒えが遅かった。


焦げた肉は焼けたまま。

切断された腕は、そこから再生せず、むしろ崩れていく。

まるで、癒しそのものを拒絶する傷のように。


セラフの魔力は、光の神の加護を帯びていた。

その力は、すべてを焼き尽くす炎のように揺らめき、生にしがみつく者たちの「死の否定」を焼き払っていく。


それは、ベルの中に眠る死神の力を抽出し、生命を不自然に繋ぎとめている呪徒たちにとって、致命的な相性だった。

癒しではなく、断罪の炎。

再生を拒絶し、生を否定する、静かな終焉の力。



戦場に咲く、ひとつの炎。

神聖なる破壊者。

誰もがそう錯覚するほどに、彼は異質だった。




その光景を、ノクスはただ見つめていた。



手も出さず、言葉もなく。

気づけばその傍らに、ナヴィが立っていた。



ナヴィ「……あの男が」



低く呟いたその言葉に、ノクスは小さく頷いた。



エラヴィアが語った、“彼”の存在。

ベルを奪い、隠し、呪いで縛った男――



目の前の剣を振るうその背が、

まさしく、それだった。


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