3-72
街の外縁にほど近い広場。
夜の帳が降りた空の下、弾かれるように倒れ込んだベルの身体が、赤く染まった大地へと沈んでいく。
赤黒く滲んだ血が、乾いた土に染み込み、まるで神への供物のように呪徒たちの狂気を呼び覚ました。
その光景の前で、玄宰は静かに笑う。
口元には血の糸。
そして、ぞっとするほど満ち足りた笑み。
彼の肌にはかすかに色が戻り、干からびていた頬には、どこか人間味すら蘇ったような気配がある。
まるで、ベルの血が彼に命を吹き込んだかのように。
その眼差しは陶酔に濁り、狂信的な熱を帯びていた。
そしてその血の匂いに誘われるように、灰色の影が蠢き出す。
飢えた獣の群れのように、ベルを中心に殺到する呪徒たち。
無数の腕が、牙が、肉を、骨を、命を求めて押し寄せる。
ノクス「ベルッ――!」
ノクスの叫びは、喉の奥から絞り出された、痛みと恐怖にまみれた悲鳴だった。
闇より放たれた影の刃が奔流となり、呪徒の列を引き裂き、灰となった肉片が風に舞う。
だが、それはあまりに無力だった。
呪徒たちは止まらない。
裂かれようと、肉を削がれ骨を砕かれようと、彼らは怯まず、痛みを知らぬまま歩を進める。
まるで死すらも拒絶された、地獄の亡者の行進のように。
ナヴィは血の中に倒れるベルへと駆け寄ろうとする。
だが、その足を止めさせるように、殺気混じりの咆哮と共に無数の影が彼の前を遮る。
視界を覆う呪徒の奔流。
そのひとつひとつが、かつて“人”だったものの面影を薄く残し、
歪んだ仮面のような顔で、狂った笑みを浮かべながら迫ってくる。
血に濡れた手を差し出し、肉を求めるように指を蠢かせて。
ナヴィ「なぜ……なんで……ッ!」
ナヴィの声は、怒りとも恐怖ともつかぬ感情に震えていた。
喉の奥で何かが焼け焦げるような熱さと、肺の奥に冷たい絶望が広がっていく。
戦場はすでに均衡を失っていた。
踏みしめた地は崩れ、空気には狂気と死の匂いが充満する。
倒れ伏したベルの身体は、血に濡れた地に沈みながら、じわじわと亡者の群れに呑まれていく。
赤黒い泥のように蠢く灰色の波が、その細い四肢を覆い尽くし、顔を、胸を、命の温もりを貪るように押し寄せていた。
肉の匂いに飢えた呪徒たちは、野獣の如くその身に群がり、骨の軋む音すら、無数の喉が発する濁った喘ぎに呑まれていく。
ノクスは膝を折り、泥に汚れた拳を地に突き立てた。
ベルの名を呼ぶ声すら喉に詰まり、ただ唇を噛み、呼吸の仕方すら忘れていた。
手が届かなかった。
声すら届かなかった。
その痛みだけが、胸の奥で鈍く、冷たく、焼けつくように疼いていた。
ナヴィは足を止めたまま、血が滲むほどに唇を噛み締める。
全身を駆け巡るのは、怒りでも恐怖でもない。
それは、ただただ深く、終わりの見えない絶望だった。
死ねないという地獄。
それが目の前にある。
この身が壊れても終わらないなら、何度でもこの悪夢を見続けるしかないのだ。
ナヴィは目の前で起こる果てしない惨劇に戦慄する。
吐き気すら覚える胸の痛みと、冷たく染みわたる無力感が、ナヴィの心を蝕んでいく。
だがその時だった。
空気が、ひどく異様に変わった。
鼓膜がきしむような沈黙。
耳をふさがれたような圧迫感とともに、世界の“音”が遠ざかっていく。
まるで、何かがこの場所だけを異なる法則で覆い尽くしたように。
そして、次の瞬間。
肌が灼けるような熱――いや、それは“気配”だった。
熱と呼ぶには冷たく、寒気と呼ぶには熱すぎる、ねじれた存在の気配。
ナヴィ「……っ、この感覚……」
ナヴィは顔を上げる。
全身の血が逆流するような錯覚。
心臓が嫌な音を立てて跳ねる。
あの時、街の外れの道具屋からルクシアの燈芯を持ち帰る途中、不意に背を焼いた得体の知れぬ視線。
それは、支脈の呪徒たちのものだったのだと思い込んでいた。
だが、違った。
これは、この蠢く者たちではない。
ナヴィ「あの気配は、あいつらなんかじゃ……なかったんだ」
ナヴィの呟きがかすれ、言葉の最後が震える。
同じ熱を、ノクスも感じ取っていた。
あの夜、森の奥で出会った、あの“圧”――圧倒的な、狂気。
だが今、彼の肌を撫でるその気配は、あの時よりも遥かに深く、重かった。
ノクス「あ……」
呪徒たちの群れがうねるように形成していた、虫の巣のような灰色の塊が、唐突に崩れ始めた。
一部は不可視の衝撃に弾け飛び、
次いで宙を断つ剣閃により、無残に斬り払われる。
血肉と骨の欠片が塵と化し、風に攫われて舞い上がった。
渦を描くそれらは、ナヴィとノクスの足元にぱらぱらと降り注ぐ。
そして、それは現れた。
亡者たちの中心に、ただ一人、穢れを纏わぬ影が降り立った。
世界がまるで息を呑み、沈黙したかのようだった。
空間そのものが、異なる位相に触れたような、ひどく不穏な静けさに支配されていく。
彼は、白と銀を基調とする外套を纏っていた。
まるで聖具のように、不自然なほど穢れなく、美しく、喧騒のただ中にあってなお一点の汚れさえ許さぬその布地。
だがその気配は、闇よりも黒かった。
見る者の奥底を冷たく撫でるような、深く、ねじれた何かが蠢いていた。
その影は、音もなく少女に歩み寄る。
ベルの身体は血に濡れ、まるで赤い花弁の中に横たわるようだった。
形をなさぬ服の残骸からは皮膚の裂け目が覗き、それは壊されながらも再生を繰り返している。
手足は小さく痙攣しながらも、意識は既に遠のいていた。
それでも、まるで崩れる直前の硝子細工のように儚く、そして凄絶に美しかった。