表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
163/188

3-72

街の外縁にほど近い広場。

夜の帳が降りた空の下、弾かれるように倒れ込んだベルの身体が、赤く染まった大地へと沈んでいく。


赤黒く滲んだ血が、乾いた土に染み込み、まるで神への供物のように呪徒たちの狂気を呼び覚ました。



その光景の前で、玄宰は静かに笑う。



口元には血の糸。

そして、ぞっとするほど満ち足りた笑み。

彼の肌にはかすかに色が戻り、干からびていた頬には、どこか人間味すら蘇ったような気配がある。

まるで、ベルの血が彼に命を吹き込んだかのように。

その眼差しは陶酔に濁り、狂信的な熱を帯びていた。



そしてその血の匂いに誘われるように、灰色の影が蠢き出す。

飢えた獣の群れのように、ベルを中心に殺到する呪徒たち。

無数の腕が、牙が、肉を、骨を、命を求めて押し寄せる。



ノクス「ベルッ――!」



ノクスの叫びは、喉の奥から絞り出された、痛みと恐怖にまみれた悲鳴だった。

闇より放たれた影の刃が奔流となり、呪徒の列を引き裂き、灰となった肉片が風に舞う。

だが、それはあまりに無力だった。


呪徒たちは止まらない。

裂かれようと、肉を削がれ骨を砕かれようと、彼らは怯まず、痛みを知らぬまま歩を進める。

まるで死すらも拒絶された、地獄の亡者の行進のように。


ナヴィは血の中に倒れるベルへと駆け寄ろうとする。

だが、その足を止めさせるように、殺気混じりの咆哮と共に無数の影が彼の前を遮る。


視界を覆う呪徒の奔流。

そのひとつひとつが、かつて“人”だったものの面影を薄く残し、

歪んだ仮面のような顔で、狂った笑みを浮かべながら迫ってくる。

血に濡れた手を差し出し、肉を求めるように指を蠢かせて。



ナヴィ「なぜ……なんで……ッ!」



ナヴィの声は、怒りとも恐怖ともつかぬ感情に震えていた。

喉の奥で何かが焼け焦げるような熱さと、肺の奥に冷たい絶望が広がっていく。



戦場はすでに均衡を失っていた。



踏みしめた地は崩れ、空気には狂気と死の匂いが充満する。

倒れ伏したベルの身体は、血に濡れた地に沈みながら、じわじわと亡者の群れに呑まれていく。


赤黒い泥のように蠢く灰色の波が、その細い四肢を覆い尽くし、顔を、胸を、命の温もりを貪るように押し寄せていた。

肉の匂いに飢えた呪徒たちは、野獣の如くその身に群がり、骨の軋む音すら、無数の喉が発する濁った喘ぎに呑まれていく。



ノクスは膝を折り、泥に汚れた拳を地に突き立てた。

ベルの名を呼ぶ声すら喉に詰まり、ただ唇を噛み、呼吸の仕方すら忘れていた。

手が届かなかった。

声すら届かなかった。

その痛みだけが、胸の奥で鈍く、冷たく、焼けつくように疼いていた。


ナヴィは足を止めたまま、血が滲むほどに唇を噛み締める。

全身を駆け巡るのは、怒りでも恐怖でもない。

それは、ただただ深く、終わりの見えない絶望だった。



死ねないという地獄。

それが目の前にある。

この身が壊れても終わらないなら、何度でもこの悪夢を見続けるしかないのだ。

ナヴィは目の前で起こる果てしない惨劇に戦慄する。


吐き気すら覚える胸の痛みと、冷たく染みわたる無力感が、ナヴィの心を蝕んでいく。



だがその時だった。

空気が、ひどく異様に変わった。



鼓膜がきしむような沈黙。

耳をふさがれたような圧迫感とともに、世界の“音”が遠ざかっていく。

まるで、何かがこの場所だけを異なる法則で覆い尽くしたように。



そして、次の瞬間。



肌が灼けるような熱――いや、それは“気配”だった。

熱と呼ぶには冷たく、寒気と呼ぶには熱すぎる、ねじれた存在の気配。



ナヴィ「……っ、この感覚……」



ナヴィは顔を上げる。

全身の血が逆流するような錯覚。

心臓が嫌な音を立てて跳ねる。



あの時、街の外れの道具屋からルクシアの燈芯を持ち帰る途中、不意に背を焼いた得体の知れぬ視線。

それは、支脈の呪徒たちのものだったのだと思い込んでいた。



だが、違った。

これは、この蠢く者たちではない。



ナヴィ「あの気配は、あいつらなんかじゃ……なかったんだ」



ナヴィの呟きがかすれ、言葉の最後が震える。



同じ熱を、ノクスも感じ取っていた。

あの夜、森の奥で出会った、あの“圧”――圧倒的な、狂気。

だが今、彼の肌を撫でるその気配は、あの時よりも遥かに深く、重かった。



ノクス「あ……」



呪徒たちの群れがうねるように形成していた、虫の巣のような灰色の塊が、唐突に崩れ始めた。



一部は不可視の衝撃に弾け飛び、

次いで宙を断つ剣閃により、無残に斬り払われる。

血肉と骨の欠片が塵と化し、風に攫われて舞い上がった。

渦を描くそれらは、ナヴィとノクスの足元にぱらぱらと降り注ぐ。



そして、それは現れた。

亡者たちの中心に、ただ一人、穢れを纏わぬ影が降り立った。



世界がまるで息を呑み、沈黙したかのようだった。

空間そのものが、異なる位相に触れたような、ひどく不穏な静けさに支配されていく。



彼は、白と銀を基調とする外套を纏っていた。


まるで聖具のように、不自然なほど穢れなく、美しく、喧騒のただ中にあってなお一点の汚れさえ許さぬその布地。

だがその気配は、闇よりも黒かった。

見る者の奥底を冷たく撫でるような、深く、ねじれた何かが蠢いていた。



その影は、音もなく少女に歩み寄る。



ベルの身体は血に濡れ、まるで赤い花弁の中に横たわるようだった。

形をなさぬ服の残骸からは皮膚の裂け目が覗き、それは壊されながらも再生を繰り返している。

手足は小さく痙攣しながらも、意識は既に遠のいていた。

それでも、まるで崩れる直前の硝子細工のように儚く、そして凄絶に美しかった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ