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3-71

「お前が……あの糸を断ち切ったのか?」


その声には、問いかけの色はなかった。

ただ確信を述べるような、凍りついた響き。


マルベラは答えない。

だが、わかっていた。

目の前のこの男が、ベルに呪いをかけた張本人――。


マルベラ「……あんたが、ベルの魂を縛っていたのかい」


そう言い放つマルベラの声も、もう揺れてはいなかった。

男の表情は変わらない。けれど、口元がほんのわずかに緩む。


「彼女の気配が、途切れた時は……息が詰まるようだった」


その名を口にしたとたん、彼の声には微かに熱が差し込む。

言葉の端に、狂気と――甘美な陶酔が滲む。


「……呪いの痕跡が蠢くこの街は僕たちの繋がりを霞ませる。……そして、辿り着くのが、少しばかり遅かったようだ」


そして一拍、息を整えるように瞼を伏せると――厳格な表情に戻っていた。


「だが……大切な糸は、まだ繋がっている」


彼の言葉はマルベラに向けられていたが、心はそこにはなかった。

彼の赤褐色の瞳は、まるでどこか別の場所――“ベル”の方だけを見ている。

その瞳の色はマルベラがベルの中に見た呪いの糸の色と、まったく同じであった。


「僕とベルの繋がりを絶とうとしたことは、許しがたい。だが――」


彼はほんのわずかに顎を引き、誓うように静かに言う。


「ルクシア様を信じる姿勢。それだけは尊重しよう」


その姿は、どこまでも正しさに忠実な、神の剣に他ならなかった。


トーノは気づく。

男とマルベラに共通する、矛盾した気配。

光と救済の神・ルクシアへの敬虔な信仰と、

それに相容れぬはずの、呪いの匂い。


男が天を仰ぐように静かに呟く。


「――光と救済の神、ルクシアの御名のもとに」


トーノの身体が凍りつく。

動けない。息すら、止まってしまう。


男は剣を抜いた。

祈るような所作で、胸の前にそれを掲げ――


一突きで、マルベラを貫いた。


「……別れの言葉を交わす時間は、残してやる」


男は剣についた血を一振りで払い、静かに鞘に収める。

そして、何事もなかったかのように背を向け、出口へ向かって歩き出した。


長く伸びた黒髪は銀の細紐で結ばれ、腰に届くほどの滑らかさを湛えている。

白と銀を基調とした外套には、聖典の文様がびっしりと刺繍されており、血飛沫すら染み込む隙を与えないような清浄さを保っていた。

手袋の皺すらなく、足元に落ちた血も彼の存在を汚すことはできなかった。


その者が途中で立ち止まり、目を見開いたまま硬直し、震えるトーノに視線を向ける。


「これは罰であり、救済だ」


トーノ「……な、んで……」


声にならない問い。

目の前で起きた現実を、心が理解することを拒んでいた。


「この者は、毎日ルクシア様に祈っていた。

お前が、自分よりも長く生きられるように……と」


それだけを言い残し、男は音もなく部屋を後にした。


扉が閉まる音が響いた瞬間、トーノは弾かれたように駆け出す。

マルベラのもとへ。


その途中、机の上の盆にぶつかり、薬湯の器と蜂蜜の瓶が床に落ちて砕けた。

乾いた音が、どこか遠くで鳴った気がした。


時から「マルベラ……っ」


その身体はもう、先ほどまでよりもさらに冷たい。

赤く広がる血に、残っていたわずかな熱すら奪われていた。

マルベラの血がトーノの服を、白い肌を染めてゆく。


かすれるような、風のように微かな声が、彼の唇から漏れる。


マルベラ「……お前に、もっと……長い時を……与えられたら……と」


その言葉の意味を、トーノは理解していた。

自分に残された時間が、あまりにも短いこと。

そしてマルベラが、そんな運命に抗おうとし、どれほどのことを試していたか。

誰よりも近くで、それを見てきたのはトーノだった。


焦点の合わない目が、微かに揺れながらトーノを捉える。


トーノ「……マルベラ、行かないで」


震える声を振り絞った。

けれど、唇から漏れたのは、それだけだった。


伝えたい言葉は山ほどあった。

それなのに、喉の奥で膨れ上がるばかりで、どれ一つとして外へ出てこない。

これが最期だと理解するほどに、想いは重たく、声にはならなかった。


――名前をくれた。

――温かい食事を、布団を、言葉をくれた。

――家族をくれた。


マルベラは、すべてを与えてくれた。


その手が、力なくトーノの手を握る。

微かに唇がほころび、まるで安心するように、そっと目を閉じる。


そのまま、ふっと――身体から力が抜けた。


涙も、声も、なにも出なかった。

心だけが、千切れそうなほど痛かった。


トーノはただ、動けずにいた。

マルベラのそばから、どこにも行けなかった。

彼の手のひらで、ルクシアの燈芯はマルベラの血に染まり輝きを失っていた。


マルベラの家を出た男は、足を止める。

血の香りがまだ衣の奥に残るまま、静かに夜を見据えた。


――気配が、途絶えた。

老いた女の命が、静かに幕を引いたのを感じ取る。

その瞬間、彼の胸に満ちたのは、安堵だった。


壊れていた自分を赦し、再び歩む道を示してくれた神。

信仰を捨て、絶望の淵に沈んでいた己を、救ってくれたルクシア。

その神が告げた言葉が、今も深く彼の心に焼きついている。


――お前が手に入れるべきものは、必ずお前を救済へ導く。死神の祝福は穢れ。彼女を、その地獄から解き放ちなさい


あの老婆を葬ることは――

かつて人としての情を忘れかけた自分が、神のために成すべき救済だった。

その信仰を示すための、祈りの刃だった。


男は静かに笑む。

その笑みに浮かぶのは清らかな喜びか、それとも……熱に浮かされた恍惚か。


「ベル……」


その名を口にした瞬間、彼の声に愛しさと哀惜と、狂気が溶け込む。

まるでその名こそが彼を構成する祈りそのものであるかのように。


そして彼は、夜の闇へ走り出す。

まるで、闇すらも従える者のように。

その瞳――祈りに焼かれた双眸が、血のような赤に染まっていた。


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