3-70
マルベラの家。
風が止んだかのように、重く、沈んだ空気が部屋の隅々に満ちていた。
魔術の痕跡が残る結界の布が揺れもせず、蝋燭の火だけが静かに瞬いている。
ベッドの上、マルベラは目を閉じ、深い眠りに沈んでいた。
その手を、トーノがそっと握っている。
痩せた指は冷たく、生命の温もりが薄れているかのようだった。
儀式を中断した直後だった。
トーノは疲れ切っていたが、手を離すことができなかった。
それは命の糸を手繰るような、幼い祈りだった。
その時。
低く唸るような音が地の底から響き、家の奥、儀式の間の方角で壁が震えた。
そして、何かが崩れる音。
それは自然のものではない。明らかに、外から来た"異質なもの"が、この家に侵入する音だった。
トーノは顔を上げる。
胸の奥で恐怖が膨らみ、喉が渇いた。
ノクスたちが残る儀式の間で、何が起きているのか。
不安は尽きなかったが、何よりも彼の目に映るのは、眠ったまま動かないマルベラの姿だった。
トーノ「……大丈夫。僕がいるから」
そう呟くように言い、トーノはマルベラの手をさらに強く握る。
次いで、戸の向こうから、何者かの声が聞こえた。
男か女かも判然としない、柔らかいが底知れぬ響きを持つ声。
ひとつの命では到底到達できないほど、長く暗い底から響いてくるような声音。
異様な気配が空間を満たし、トーノは震えそうになる体を必死に抑え、マルベラの身体を庇うように覆いかぶさった。
マルベラ「……トーノ、お前は逃げなさい」
いつの間にか目を覚ましていたマルベラが唇を動かした。
掠れるような声、それでもしっかりと伝わる強い意志。
だがトーノは、首を振った。
トーノ「嫌、マルベラを置いていけない」
それは幼い頑固さというよりも、初めて自分の意志で選んだ決意だった。
そして、小さな身体でマルベラを抱きしめる。
その温もりが少しでも彼女に届くように、全身で包むように。
……やがて、足音は遠ざかっていった。
声も気配も、薄れるように消えていく。
一瞬だけ続いた不在の静寂。
トーノは慎重に体を起こし、マルベラにひとつ言葉をかけた。
トーノ「……少しだけ、見てくる」
小さく息を整えて、儀式の間の戸を開く。
そこはまるで、戦場の跡のようだった。
壁には大きな裂け目ができ、床は何人もの足跡で踏みにじられている。
灰、砂、靴跡。
三人の姿はどこにもなかった。
呆然と立ち尽くすトーノの目に、床の一点が映る。
そこだけ、誰にも踏まれていなかった。
ルクシアの燈芯。
信仰の光、奇跡の証。
薄く光を帯び、奇跡のように無傷のまま、そこに在った。
トーノは膝をつき、それをそっと拾い上げた。
彼は拾い上げたルクシアの燈芯を、両手でそっと包み込むように持ちながら、静かにマルベラの部屋の方を振り返った。
儀式の間に満ちていた不穏な気配が、確かに薄れつつある。
だが。
それだけではない。
家の中には、別の"何か"があった。
いつからそこにいたのかも分からない。
その存在は、儀式の間の数多の気配に紛れて、まるで最初からこの家に棲んでいたかのように、違和感なく溶け込んでいた。
けれど、今はっきりと分かる。
それは、もっと得体の知れないもの。深く、暗く、触れた者の奥底を灼くような――異様な熱を孕んだ気配だった。
トーノは気配や魔力を感じ取れるほど敏感ではない。
けれど、そんな彼にすら届くほど、それは強烈だった。
トーノ「マルベラ……」
恐怖と混乱が胸を締めつける。
トーノは燈芯を握りしめると、迷いなく駆け出した。
短い廊下。けれど、その距離が果てしなく思える。
冷たい床を踏みしめながら、息を切らして扉に手をかけ勢いよく開けた。
マルベラの部屋。
濃密な空気。まとわりつくような圧。
そして、窓辺に立つ人影。
それは煙のように曖昧で、どこかマルベラに似た匂いを纏っていた。
トーノ「……だ、れ?」
トーノの声は震えていた。かすれ、囁くように漏れた。
その瞬間、ベッドに横たわっていたはずのマルベラが、荒く息を吐きながら上体を起こす。
その目が、かすかに見開かれ、黒い影を捉える。
マルベラ「トーノ……来るんじゃない……!」
それは命を削るような声だった。
老いた喉が掠れながら、それでも絞り出されたその叫びは、
トーノを庇うように、部屋の空気を振るわせた。
人影がゆっくりと振り向き、トーノに視線を向けた。
その動きは水面の波紋のように静かで、完璧な均衡を保っている。
背筋は寸分の狂いもなく伸び、微かな衣擦れの音さえも計算されたかのように整っていた。
まるで、神に仕える使者のように――いや、それ以上に、何か不自然なほどに整いすぎている。
しかしその眼差しは一瞥にすぎず、すぐにマルベラへと向き直る。
低く、儀式のように整った口調で囁いた。