3-69
戦場の空気が一層重くなる。
死を拒絶し、なお生を求める彼らの執念が、確かに形を持って蠢いていた。
ベルは血が滲む腕を押さえながら、なおも前を見据える。
ベルの腕の傷を一瞥した玄宰は、舌なめずりをしてから一歩踏み出す。
その歩みは静かでありながら、足元から世界の軸を狂わせるような圧を伴っていた。
玄宰「やはり君は我々の希望だ……」
彼の声は甘く、耳を撫でるように柔らかい。
けれど、その言葉の裏に潜む意図は、愛でも救済でもない。
それはただ、己の欲望を満たすためだけの狂気。
玄宰「君だけが、我々の……私の世界を完成させる……」
その瞬間だった。
玄宰の顔、まるで天使のように整った子どもの顔が醜く歪む。
その歪みの中から、彼の本性が滲み出す。
骨の音を鳴らして膨張する肉体。
人のものとは思えぬほど鋭く、長く伸びた爪が、両腕から突き出すように現れた。
まるで肉という殻を割って、内側の“異物”が姿をあらわしたかのように。
その爪が、音もなく地を裂く。
ただ立っているだけなのに、空気が悲鳴を上げる。
ベルの表情は変わらない。
魔法剣を再び握り直し、その気配を殺す。
ノクスが彼女の背を守るように立ち、ナヴィも刃を構え直す。
けれど――周囲の呪徒たちもまた、動き出していた。
ノクスとナヴィをベルから引き離すように、群れが蠢く。
彼らは視界も持たず、痛みも恐れず、ただ命令のままに行動する。
ノクスが鋭く叫ぶ。
ノクス「ナヴィ、ベルから引き剥がすつもりだ! 止めろ!」
ナヴィが剣を振るい、氷の破片が呪徒たちの足元に広がる。
凍てつく刃が足を奪い、幾人かを凍りつかせるが、それでも止まらない。
彼らは再生しながら、這いながら、死を恐れぬ泥のように向かってくる。
そして、その中心で。
玄宰は口角を吊り上げ、ベルに向かって言う。
玄宰「さあ、私の世界を君の命で完成させよう――」
その場に残ったのは、ただふたり。
ノクスとナヴィが引き剥がされた先で呪徒たちと応戦する中、ベルは静かに構えを取り直した。
魔力を込めた魔剣が、かすかな唸りを上げて輝きを増す。
対する玄宰は、既にほとんど“人”の姿を脱ぎ捨ててた。
ベルに手を伸ばそうとした呪徒の一人が、影のように背後から迫る。
玄宰「……触れるな」
静かに告げた玄宰の声が、空気を切り裂く。
次の瞬間、彼の爪が鋭く閃き、呪徒の身体を弾き飛ばした。
肉を裂く音と共に地に転がるその姿に、周囲が一瞬だけ息を呑む。
それはまるで
大切な玩具を奪われまいと、必死に守る子どものようだった。
玄宰「今だけは、誰にも邪魔をさせない」
玄宰の足が音もなく地を滑る。
その動きは滑らかで異様で、美しくも恐ろしい。
ベルもまた一歩踏み出し、目を逸らさずに魔剣を振るう。
その戦いは、どちらがより死に慣れているかを競うようだった。
ベルは普段から、己の死を恐れずに戦う。
傷ついても構わない、壊れても構わない。
ただ目的を果たすために。
だが玄宰もまた、同じだった。
裂けた皮膚、断たれた筋が、彼の意思に従って蠢き、瞬く間に再生する。
脇腹を掠めたベルの魔弾――物質の結びつきを断つ魔法――が命中しても、数秒の後には元通り。
玄宰「懐かしい物がある」
玄宰が不意に呟いた。
その手には、黒く光る瓶。
中で揺らめく液体が、見えない恐怖を孕んでいた。
玄宰「覚えているか?あの薬液……。お前が“使われる道具”として刻まれた日を」
ベルの表情が一瞬だけ揺れる。
それを見逃さず、玄宰は笑った。
玄宰「あれからずいぶんと改良された。もっと深く、もっと速く、もっと確実に……意識も、記憶も、すべてを溶かす」
そして、爪に薬液を塗布する仕草は、まるで化粧のように丁寧だった。
玄宰「さあ、もう一度我々の、私のものになろうか――ベル」
次の瞬間、玄宰の身体が閃光のようにベルへと躍りかかる。
染み込んだ毒を纏った黒い爪が、ベルの喉元を目がけて一直線に。
ベルはそれをギリギリで見切り、剣を交差させて受け止めた。
爪と刃がぶつかり、火花と黒煙が舞う。
幾度となく交錯する、ベルと玄宰の攻防。
剣と爪、魔と肉。互いに躊躇いなど一片もない。
玄宰は知っていた。
ベルの魔力が尽きれば、死神の加護が発動し、“死神の揺り籠”が彼女を包むことを。
それはあらゆる干渉を拒む、完全なる静寂の殻。
誰も触れることができず、時間さえも彼女を追い越せない。
だが玄宰は嗤う。
玄宰「構わない。今の我らならば、待てるさ。
百年でも、千年でも……お前が再び目覚めるその時まで」
次の瞬間、彼の爪が鋭く振るわれ、ベルの首元をかすめる。
かすり傷と言うにも小さな赤い線。
だが、その傷を這う黒い液体が、じわじわと皮膚へと染み込んでゆく。
呪いを込めた薬液。
その量は極めて微量。肉体への直接的な影響などほとんどない。
けれど、ベルの深層に沈んでいた古い記憶が、じくじくと呼び覚まされていく。
あの檻の中で、意識すら奪われ、名もない実験体として刻まれたあの日々――。
一方その頃、ノクスとナヴィは互いに背を預け、灰色の呪徒たちの猛攻に耐えていた。
疲労の色は隠せない。
ナヴィは剣に込めた冷気が、己の腕をも凍てつかせ始めていた。
ノクスの魔道具はすでに幾つか砕け、癒しの魔力も尽きかけている。
もはや回復も、幻影も叶わない。
そんな中、突如として、戦場が静寂に包まれた。
誰もが――敵も味方も――ベルと玄宰のほうを見ていた。
次の瞬間、ベルの瞳がわずかに見開かれる。
一瞬の迷い。心を曇らせる忌まわしい記憶。
その隙を、玄宰は見逃さなかった。
獣のように跳びかかり、彼女の首元に歯を突き立てた。
ざくり、と肉を裂く音。血が、弧を描いて宙に舞う。
その紅に、呪徒たちはまるで取り憑かれたかのように蠢き出す。
灰色の波が、狂喜と共に二人に群がった。
無数の腕が、目が、口が、ベルを得ようと伸ばされる。
ノクスとナヴィの叫びは、轟く喧騒に呑まれていった。
踏み荒らされ、かき消されたその声は、届くことはなかった。