3-68
静寂の中で、ベルの睫毛がふるりと揺れた。
そしてゆっくりと、まるで深い水底から浮かび上がるように、その瞼が持ち上がる。
色彩のない夢も、言葉も、感情も存在しなかった空白の眠り。
それは、呪いが彼女の魂を縛りつけてからというもの、ただの一度も得られなかった静謐だった。
彼女の意識が浮上するたびに、常に声が、干渉が、侵食があった。
だが、今は違う。
目覚めたベルの頭には何の声も響かず、魂を引かれるような不快な重みもない。
すべてが遠ざかり、霧が晴れたような静けさだけがそこにあった。
……ただ、完全に断ち切られたわけではなかった。
どこかでまだ細く、微かに繋がっている感覚がある。
だが、それでも。
それでも、確かに、マルベラの儀式は“呪い”の重圧を和らげていた。
ノクスの腕の中で意識を取り戻したベルは、その手からふわりと身を離し、自分の足で地面に立った。
薄く白い靄が流れる大地。足元の感触はどこか非現実的だったが、それでも確かに“今”を踏みしめていた。
そして――その姿を、戦場のすべてが見た。
灰色の影も、剣を振るっていた者も、そして空気すら、ベルの目覚めに凍りついたかのようだった。
まるでその瞬間、世界が呼吸を止めたように。
ナヴィは剣を引き、躊躇いもなくベルとノクスのもとへ駆け寄った。
彼の瞳に浮かぶのは、安堵と、そして計り知れぬ感情だった。
そのとき、玄宰が呟いた。
声はかすかだが、熱に浮かされたように陶然としていた。
玄宰「目覚めた……その目で、我々を映している……」
焼け爛れた顔を癒しきらぬまま、玄宰は恍惚の表情でベルを見つめる。
その瞳に宿るのは、執着、愛、渇望、そして狂信。
ベルは、ぼんやりと彼を見つめた。
どこか懐かしむように、けれど憎悪にも似た哀れみを滲ませて、言った。
ベル「……技術者」
それは彼らに与えられた、古い、あまりに古い名。
玄宰は笑った。
玄宰「そうであり、そうでない」
その言葉は断定ではなく、自己否定と陶酔が入り混じったものだった。
玄宰「語ろう。我らがどのようにして、今ここに立つかを」
彼は淡々と、けれどもどこか陶酔したような口調で語り始めた。
玄宰「塔が崩れたあの夜……実験は失敗した。
炎がすべてを焼き尽くし、瓦礫が我らを押し潰そうとした」
ベルの瞳が僅かに細められる。思い出の断片が、ひび割れた鏡のように彼女の内にきらめいた。
玄宰「我ら技術者は、死の淵で、未完成の薬液に縋った。
お前の“不死”を目指して作られた――あの、雫だ」
彼の言葉と共に、彼の皮膚が僅かに蠢く。
まるで体の内側から別の何かが動いているかのように。
玄宰「命は繋がった……だが、我らは色を失い、形を失った。
皮膚は焼け落ち、骨は溶け、声すら混じり合い……死を失った」
彼の後ろ、灰色の群れがざわめく。まるでその記憶が、そこに刻まれているかのように。
玄宰「特に――我ら三人。二つの派閥の長と、そして技術者の実験の出資者。
お前を誰よりも欲していた三人の体は……溶け合い、崩れ、やがて一つになった」
彼が広場に立つ人々に手を差し出すと、その指の先から、黒く濁った何かがしたたり落ちる。
それは地に落ちる前に霧となり、空気へと消えていった。
玄宰「だが、それでも足りぬ。完全なる“不死”には至らなかった。だからこそ我らは、“器”を創った。魂なき体を。
そしてその中に巣くい、今こうして存在している」
彼の顔が微かに笑う。半分だけ崩れかけた笑顔。それはあまりに歪で、恐ろしく、そして悲哀に満ちていた。
玄宰「我らには、“核”が必要だ。完全なる不死を内包した、揺るぎない魂と肉体。
――ベル、お前だ」
その瞬間、広場の影がうねり、空が震えた。
声なき声が、街そのものから漏れ出すように響く。
そしてベルは、僅かに息を呑んだ。
彼女の中に、確かにその共鳴が届いていた。
ベルの視線がわずかに鋭くなり、歪に笑う“少年”の姿をした存在を睨む。
ナヴィは睨むように玄宰を見据えていた。
冗長とも思える語り口。しかし、それは決して油断から来るものではない。
むしろ、緻密に計算された“演出”――言葉の一つ一つが、周囲に影響を及ぼす術のようだった。
実際、灰色の影たちは玄宰の言葉に合わせるかのように蠢き、ざわつく空気が街全体に広がっていく。
街の輪郭がどこか曖昧に歪み始め、建物の窓や石畳の隙間から、ぬるりと何かが覗いているような錯覚を覚える。
まるでこの街そのものが、ベルという生贄を取り込もうとしているようだった。
ナヴィはわずかに身体を傾けてノクスを窺った。
彼はベルの隣に立ったまま、玄宰に向けて鋭く視線を注いでいる。
表情は動かない。だが、その瞳の奥では、次の一手を練る鋭利な思考が静かに回転していた。
ナヴィは、その無言の気配にわずかに安堵し、剣の柄に添えていた指先を強く握りしめる。
その時――
ベル「私が貴方たちにあげられるものなんて、何もない」
ベルの声が、静けさを貫いて響いた。
それは叫びでも、怒りでもなかった。ただ、深く静かな拒絶だった。
だが、その言葉に込められた意志の重さに、灰色の影が一瞬たじろいだように揺れる。
ベルの瞳が赤く揺れる。
次の瞬間、彼女の手に宿る魔力が渦を巻く。
黒い光が掌から溢れ、瞬く間に細く鋭い刃の形をとる。
それはまるで、光と闇の狭間から抜き取られた“拒絶の証”。
ノクスの眼が細められ、懐から取り出した魔道具が静かに光を帯び始める。
彼の指先が淡く動いた瞬間、それは空間全体に干渉するような微細な振動を発した。
ノクス「――目を閉じろ」
ノクスの掌で魔導具が閃光を放ち、夜の闇を裂いた。
爆ぜるような音と共に白光が視界を焼き、通路一帯を眩く染める。
ノクス「今だ!」
ノクスの叫びと同時に、三人は駆け出す。
だがその行く手には、なおもびっしりと人の壁――いや、もはや人の形をした何かが立ち塞がっていた。
光に目を灼かれたはずの呪徒たちは、まるで目など必要ないかのように、迷いなくベルに手を伸ばしてくる。
ナヴィ「なんだ……目が見えてなくても――」
ナヴィが睨みつけ、氷の剣を振るう。
霜を帯びた刃が敵の肩口から胴を裂き、氷結した肉体が砕ける。
ベルは沈黙のまま魔力を剣に纏わせ、死神の魔法を刻むように振るい続ける。
剣が描く軌跡のたびに、影が引き裂かれ、死の気配が路地に広がる。
ノクスは後方から援護を続けていた。
ノクス「左、ベル! ナヴィ、もう少し下がって!」
素早く回復魔法を唱えながら、彼は敵の挙動を冷静に読み続けていた。
しかし、出口は遠い。
圧倒的な数が、三人を押し戻そうと圧力を強める。
――その時。
ベル「っ……!」
ベルが短く息を飲む。
灰色の服に包まれた呪徒の一体が、突如として彼女の腕に噛み付いた。
鋭い歯が肉を裂き、血が滲む。
ナヴィが即座に氷の剣でその呪徒を引き剥がす。
ナヴィ「大丈夫か、ベル――」
だが、次の瞬間。
倒れたはずの呪徒が、奇怪な音を立ててその肉体を再構築していく。
亀裂を走らせた骨が繋がり、ちぎれた筋が這うように戻る。
再生だけではない。
その呪徒の灰色に染まっていた皮膚が、ほんのわずかに“人間らしい”色を取り戻していた。
ノクス「……回復してる……?」
ノクスが息を呑んで呟く。
その瞳に浮かぶのは、戦慄と疑念。
周囲の空気が、急に熱を帯びる。
肌にじりじりとした感触がまとわりつき、まるで獣の吐息のような熱が押し寄せてくる。
ノクス「今の、まさか……ベルの血で……」
ぞくりと、背筋を這うような感覚。ノクスの中で、警戒が別の恐怖へと形を変えていく。
ナヴィもまた顔をしかめてその姿を睨む。