3-67
震える壁に、淡く蒼い光を放つ魔法の呪印が浮かび上がる。
見えない誰かの低い詠唱が、地の底から響くように響き始めた。
ナヴィ「……ッ!」
ナヴィは即座に反応し、ベルを慎重に抱き上げて呪印から距離をとる。
次の瞬間。
壁が、ひと息に砕けた。
鈍い音とともに、砕けた石片が夜の空気に舞い、外の闇が口を開ける。
闇の向こうから現れたのは、灰色の衣に身を包んだ影たち。
その気配は生者のものではなかった。
ノクス「……支脈の呪徒?」
ノクスが静かに呟く。
頭の奥で古い記憶が警鐘を鳴らしていた。
闇を割って、ひとりの少年の姿が進み出る。
金の巻き毛に、天使のような顔立ち。
だが、その微笑みは歪んでいた。
まるで幾人もの人格が顔の奥で嗤っているかのような、不気味な笑み。
玄宰「よく知っていたな」
少年の姿をした男が、礼儀正しく頭を下げる。
玄宰「私は玄宰。支脈の呪徒を導く者」
その声は澄んでいるが、底知れない深さがあった。
ノクスの目が細くなる。
この男は、あの時、街でベルのフードを無遠慮に引いた少年。
既にあの時から追われていたのだ。
玄宰「私たちの、この街の“心臓”を返してもらおう」
玄宰の言葉とともに、呪徒たちの背後からざわめくような声が広がっていく。
「悲願を果たせ……」
「この街を再び我らのものに……」
「永遠の愛命を、心臓と共に――」
その声は異形の祈りのようで、狂気と執念が入り混じっていた。
群れの中には、もはや人の形をしたものとは思えぬ存在もいる。
醜く変異し、ねじれ、魔と呪に蝕まれた顔。
ナヴィは、ノクスに一度だけ視線を送る。
その瞳は「ここで戦ってはならない」と告げていた。
ノクスがわずかに頷いた瞬間、ナヴィはベルを抱えて疾風のように駆け出した。
この家で戦うわけにはいかない。
ベルを守るためにも、マルベラを守るためにも。
玄宰の金の巻き毛が、風にそよぐ。
玄宰「ふふ、逃げるのか」
玄宰は冷ややかな笑みを浮かべながら、闇の中で揺れるナヴィたちの背を見つめる。
玄宰「この街は不死の少女の魔力に染まり、彼女の記憶を宿している。街に尋ねれば、居場所を囁く……」
彼はその言葉を残し、追撃を始める気配を見せたが、ふと足を止めた。
休息の場となっているマルベラの部屋の方角に、鋭い視線を向ける。
玄宰「彼女にまとわりつく異様な気配が薄れた……呪術師の功績に免じて、今回は見逃してやろうか、失敗作め」
そう言うと、玄宰は後ろに控える禍々しい影たちに指示を下し、ゆっくりとその場を離れていった。
ノクスとナヴィは息を切らしながら、街の外周へ向けて走り出す。
街の中心から遠ざかるほど、魔力の影響は薄れ、彼らの動きも自由を取り戻す。
追いかけてくる者たちの気配は依然として異形であり、決して人間とは呼べぬものばかり。
凶暴な本能と驚異的な身体能力を伴い、追撃の手を緩めない。
ノクスは次々と魔道具を取り出す。
眩い光を放つ魔法の罠を設置し、動きを封じようと躍起になる。
ノクス「ここで足を止めるわけにはいかない」
彼の瞳は鋭く光り、状況を冷静に見極めながらも必死に前を見据えた。
やがて彼らは、街の外縁に広がる開けた空き地に辿り着く。
開放感に似た空気が肌を撫で、ここなら戦いやすいと互いに頷いた。
しかし、息を整える暇もなく、影たちは闇の中からなおも迫り来る。
ナヴィは未だ眠るベルをノクスに託す。
目を閉じたままの少女の穏やかな寝顔に一瞬心を奪われるが、すぐに気を引き締めた。
ナヴィ「頼む、ノクス」
ノクスは力強く頷き、未だ目覚めないベルの体を託し受ける。
そして、ナヴィは手に冷気を込め始める。
肌を切り裂くような冷気が手のひらからじわりと広がり、青白く輝く剣に変わる。
ナヴィ「ここなら戦える」
ナヴィは静かに呟きながら、剣を構える。
その眼差しは鋭く、戦うことへの覚悟が固まっていた。
目の前の広い空き地に、灰色の者たちが次々と集まってくる。
一歩一歩踏みしめるたびに、大地が沈み込むような圧力を感じさせる。
その者たちは、肌も髪も目の色も、すべてが灰色がかっている。
まるで、暗い過去を背負った街そのもののようだ。
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ノクス「エン=ザライア」
ノクスが小さく呟く。
その名は、大規模な魔術災害で灰に帰したこの街の名前であり、その名残を宿す者たちを指していた。
"ザライア"は古語で「重なりし記憶」という意味があり、まるでその記憶がこの者たちに宿り、彼らがその街の化身であるかのように感じられる。
そんな中で、灰色の中を優雅に歩く玄宰の姿が見えた。
その足取りには何の迷いもなく、まるですべてが運命通りであるかのように滑らかだ。
その顔には歪んだ笑みが浮かび、薄闇に沈んだ目が輝く。
玄宰「ベルを、朽ちぬ我々の心臓を取り戻せ」
玄宰の声は低く、そして冷たかった。
玄宰「多少傷つけてもかまわない、すぐに癒える。」
その言葉には、どこか狂気と確信を孕んでいる。
玄宰の指がふわりと上がると、周囲の者たちがその合図を受けて一斉に動き出す。
目に見えるか見えないかの速度で、あたりに潜んでいた影たちが鋭く迫ってきた。
夜風がナヴィの髪をなびかせ、冷気が剣の周囲に凍れる紋様を描いていく。
彼の戦いは、元来、強大な敵一体との一騎討ちを得意とするものだった。
読み合い、間合い、呼吸の緩急——その全てが研ぎ澄まされ、決着は一瞬でつく。
だが今、彼の前に立ちはだかるのは、数知れぬ灰色の呪徒たち。
それぞれが人の姿をしていながら、ひとつの意志で動くような不気味さを孕んでいる。
ナヴィ「面倒だな……こういうのは、性に合わない」
低く呟いたナヴィは、短く詠唱し手に宿した氷の魔力を弾けさせる。
瞬間、氷の幻影が無数に立ち現れ、ナヴィとそっくりの姿をして戦場を駆ける。
だが、幻術は時間稼ぎにはなっても決定打にはならない。
敵は怯むことも惑うこともなく、まるで機械仕掛けのように冷静に、着実に迫ってくる。
ナヴィ「ちっ……!」
一体、また一体と敵を斬り伏せるが、倒しても倒してもきりがない。
剣が血に濡れず、敵が断末魔をあげることもない。彼らはすでに人ではなかった。
玄宰の声が冷たく響く。
玄宰「無駄だ、彼らはすぐに回復する。倒しても、倒しても、すぐに復活する。彼女の永遠に触れた証拠だ」
その言葉に、ナヴィの眉がひそめられた。
ナヴィ「何度でも倒してやる」
彼の冷徹な眼差しが、青白く輝く刃に宿る。
そのとき、ナヴィの足元に魔法陣が浮かび上がる。
瞬時に視界が冴え渡り、筋肉の反応速度が一段階高まったのを感じる。
振り向くまでもなく、それがノクスの支援魔法であると分かった。
ナヴィ「助かる」
短く呟き、敵の群れの中へ再び飛び込む。
ノクスはベルを抱いたまま、周囲を走査する。
時折、視線を向けた先に短く呪文を唱え、爆風や重力の歪みを起こしてナヴィの動きを補助する。
二人の連携は即興にしては精緻で、まるで長年の戦友のようだった。
だが、その戦場の混沌の中。
誰にも気づかれぬ軽やかな足取りが、静かに、そして確実にベルへと迫る。
玄宰だった。
戦いの中心から離れた空白を縫い、優雅な動きで。
彼は笑みを崩さぬまま、淡々と、眠り続ける少女へと歩み寄っていく。
ノクスがようやく気配を察し、顔を上げたその瞬間。
玄宰「遅い」
玄宰の囁きが、耳元で響いた。
玄宰は静かに、まるで遠くの記憶を辿るかのように、ベルへと手を伸ばした。
その指先は冷たく、けれど決して奪い取ろうとするものではなかった。
ゆっくりと、ベルの髪に触れ、まるで幼子を愛おしむかのように撫でる。
その眼差しは優しく、しかしどこか歪んだ執着を帯びていた。
ノクスはその異様な光景に目を凝らし、瞬時に距離を取る。
手早く小さな煙幕の魔法陣を描くと、爆発を伴う煙幕を放った。
煙が広がり、濃密な煙と火花が渦巻く。
玄宰は避けようともせず、そのまま爆発の中に立ち尽くした。
火花が顔に降り注ぎ、皮膚が焼け焦げる音が小さく響く。
だがその傷は、ただの痛みではなく、不気味な生命力を見せつけるように、みるみるうちに傷が癒える。
しかし引きつる皮膚は完璧には戻らない。
ノクスは思わず息を呑む。
玄宰「我々は死なない、だが完璧ではない……」
その言葉が、くすぶる炎の中から低く、断言するように漏れた。
玄宰は半ば崩れかけた顔をあげると、淡々と続ける。
玄宰「だからこそ、ベルと、完璧な不死と交わる必要があるのだ」
その言葉は灰色の群れだけでなく、この街全体の空気すら揺らすように響いた。
遠くから波紋のように広がる共鳴の震えは、密かにベルにも届いていた。
その瞬間、ベルのまつ毛がふるりと揺れた。
深い眠りの淵で微かに震えていた彼女の瞳がゆっくりと開かれる。