3-66
マルベラの頭にふとよぎる考えがあった。
――もし、この糸で、トーノとベルを結ぶことができたなら。
残り少ない命の灯火を抱えるトーノ。
この街の片隅で生まれ、名前すら「失敗作」として捨てられた哀れな少年。
もしベルの生命のほんのひとかけらでも、彼に分けることができれば――
それが叶うなら、彼に未来を与えられるのではないか?
その考えが頭をもたげた瞬間だった。
赤黒い《命を結ぶ糸》が、まるでその思考に呼応するようにうねりを増す。
蛇のように艶やかに、魅惑的に。
「望めば叶う」とでも囁くように、その端がマルベラの指に絡みつこうとした。
読まれている。
そんな気がした。
それとも、ただの思い過ごしか。
いや、どちらにせよ、これは誘惑だ。
禁じられた力。手を伸ばせば、彼女自身もまた呪われる。
マルベラは強く頭を振った。
その思考を、心から追い払うように。
マルベラ「それは……違う。赦されるべき選択ではない」
声にはならない呟きを胸の奥に沈め、再び《命を結ぶ糸》に向き合う。
マルベラは心を引き締め、最後の呪いの糸に手をかけた。
その糸の誘いは依然として強いが、彼女はそれを無視するように静かに集中した。
魂を傷つけぬよう、解きほぐすように、糸を扱うその手は慎重だった。
だが、次第にその手に力が入らなくなり、次第に意識が朦朧としてきた。
その瞬間、異変が起こった。
ルクシアの燈芯が急に光を失い、マルベラの右目の魔晶石もまた、光を失った。
燈芯は燃え尽きていない。しかし、燃料である彼女自身の魔力が尽きてしまったのだ。
それに呼応するように、五重螺旋の光も消えていく。
マルベラはその場に倒れ込むように、力尽きて崩れ落ちた。
その音は重く、部屋の静けさを破るように響く。
燭台が倒れ、冷えた火のない空気に包まれると、その音を聞きつけて、トーノとノクス達が急いで部屋に駆け込んできた。
マルベラ「……最後のやつが強敵でね、少し休憩をさせてくれ」
マルベラは何とか笑顔を作ろうとしたが、その顔には深い疲労が色濃く刻まれていた。
それでも、微笑みを浮かべて言う。
マルベラ「私も歳をとったものだ、ね」
マルベラの言葉が途切れると同時に、彼女の身体が力なく傾ぐ。
トーノ「マルベラ!」
トーノが駆け寄り、支えるように腕を差し出した。
だが、彼女の身体はまるで糸が切れたかのように重く、思っていた以上に冷えていた。
ナヴィ「部屋へ運ぼう」
ナヴィが静かに言うと、ノクスは無言で頷いた。
ノクスがマルベラの肩を、ナヴィが足元を支え、慎重に彼女を抱き上げる。
その動作は極めて静かで、重みを受け止める二人の手には焦りよりも、深い敬意と労りが宿っていた。
マルベラの頭がノクスの胸元に傾き、白髪がかすかに揺れる。
トーノが先に立ち、ベッドの脇を整えると、そっとシーツを引いて準備を整えた。
ナヴィとノクスは、息を合わせてマルベラをベッドに横たえる。
彼女の顔色は青ざめ、呼吸も浅い。
だが、それでも彼女の眉間にはどこか凛とした意志の痕跡が残っていた。
マルベラ「大丈夫だよ、ただ少し休むだけ」
そう言って、マルベラは力なく微笑む。
トーノはマルベラの様子を心配そうに覗き込んだ。
その瞳の奥に、溢れそうな感情を押し込めているのが見て取れた。
ノクスとナヴィが儀式の間に戻り、静かにベルのそばへと腰を下ろした頃。
トーノは、体の温まる薬湯に蜂蜜を溶かしたものをマルベラに手渡した。
マルベラ「ありがとう、トーノ」
マルベラは湯気の立つ杯を受け取り、一口すする。
ほんのり甘い香りと共に、その疲れた顔に微かな笑みが浮かぶ。
ふと、部屋に漂う香ばしい香りに気づき、目を細めた。
マルベラ「この匂いは……焼菓子だね。少し休んだら、食べさせてもらおうかね」
トーノの瞳には、まだ消えぬ不安の色が宿っていたが、それでもマルベラの言葉に小さく笑みを返した。
マルベラはその手を握られたまま、安らぐようにそっと瞳を閉じる。
その頃。
儀式の間では、ノクスとナヴィが魔法陣の光が消えた床に膝を折り、静かに眠るベルを挟むように座っていた。
燃え尽きた燭台の影が壁に伸び、空気はまだどこか緊張を含んでいる。
ノクスは静かにベルの肩に毛布をかける。
冷え切った肌に、少しでもぬくもりが伝わるようにと。
ナヴィは沈黙の中で思案していたが、やがてぽつりと口をひらいた。
ナヴィ「……自分は呪いに詳しいわけじゃないが、あれほどまでに消耗するものなのか。解呪の儀式ってのは」
ノクスは短く頷く。
ノクス「解呪にもいろんな流派や術式がある。でも、マルベラの使うそれは……自分の魔力で呪いの形を浮かび上がらせ、そこに光の神の力を通して清めていく術だ。
二つの性質の異なる力を、まるで刃を素手で握るみたいに扱って……命を削るようなやり方だよ」
その声には、言葉にならぬ敬意が宿っていた。
ナヴィ「その対価に……トーノに街の外を見せてほしい、か」
ナヴィの視線はどこか遠く、儀式の間の外を見つめるようだった。
マルベラがトーノに託した願い。
あの少年に、今まで見たことのない世界を、生きた証を残させるために。
それはまるで、何かを覚悟していた者の願いのようでもあった。
沈黙が落ちる。
まるで場の空気が深く沈むように、儀式の間に重い静けさが広がった。
――その時だった。
ごう、と鈍い音を立てて、儀式の間の壁が小さく震えた。
砂粒のような欠片が天井から舞い落ちる。
ノクスが反射的に立ち上がる。
ノクス「……今の、何だ?」
ナヴィも素早く立ち上がり、魔力の流れを探るように目を細めた。