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3-65

解呪の儀式が始まった。


重く閉ざされた扉の向こう、部屋の空気はぴんと張りつめ、

蝋燭の揺れる光が術式の線をなぞるように踊っていた。

静寂の中で、何かが緩やかに動き出す気配がする。


一方、ノクスとナヴィは儀式の間からそっと外へ出され、

客間へと案内された。


ノクスは無言のままソファに腰を下ろし、手元の術式の断片を思い返していた。

ナヴィは窓辺に立ち、閉ざされた儀式の扉を振り返る。


そこへ、トーノがそっとお茶の載った盆を運んできた。

ぎこちない手つきながらも、丁寧に二人の前に湯気の立つ茶器を置いていく。


トーノ「マルベラ、儀式の後はいつもすごく疲れるから……」


そう言って、少年はエプロンの裾をきゅっと引き締めると、

焼き菓子を焼く準備をするため、台所の方へと小さな足取りで去っていった。


その背中を、二人はしばし無言で見送る。

そして、静寂を切るように、ナヴィがぽつりと口を開いた。


ナヴィ「……さっき、屋根の上で。背筋が焼けるような視線を感じた」


その声には、珍しく怯えを含んだ低さがあった。

ノクスは湯気の立つカップに目を落としながら、ゆっくりと顔を上げる。


ノクス「姿は見えたのか?」


ナヴィ「いや。何も。方角すら――ただ、炎を押しつけられるような。そんな視線だった」


ナヴィは、拳をゆるく握った。


ナヴィ「一瞬で消えた。でも……あれは、ただの悪意じゃない。もっと、根の深いものだ。呪いにも似た、執着のような」


言葉を選ぶようにして口に出されたそれに、ノクスは少しだけ眉をひそめた。


ノクス「気配は追えたか?」


ナヴィ「この街の空気が歪んでる。感覚が乱される。まるで……薄氷の下を覗こうとするみたいに、感覚が狂う」


その言葉に、ノクスは思索に沈んだ表情を見せた。

ノクスは茶を口元に運びながら、ふと天井の影を見上げた。

蝋燭の光がかすかに揺らめき、その明滅がまるで、過去の記憶の断片を壁に映し出しているかのようだった。


――エン=ザライアでかつて起きた魔法災害。

街に巡らせていた膨大な魔力が暴走し、一瞬にして多くの命と建物を呑み込んだ、忌まわしい事故。

ノクスはその出来事について、ある程度の知識を持っていた。ただ、それはあくまで表面的な情報――


「なぜ起きたのか」「誰が引き起こしたのか」「どのような魔術が用いられたのか」までは知らなかった。


そんな彼の胸をざらつかせたのは、トーノに案内されて訪れた図書館で、偶然手に取った一冊の本。

その一章に綴られていた、誰も語ろうとしない“内実”だった。


支脈の呪徒――今も街の基盤を裏から支配する技術者集団。

……“無限の命”を動力源とする実験を試みた。

だが、その野望は災厄を呼び込み、事故とともに彼らは滅び去った。

しかし名を残し、“復興”の名のもとに今も機会を窺っている――


ノクスは息を潜めるようにして、そっと言葉を紡いだ。


ノクス「……“無限の命”って、ベルのことじゃないかと思うんだ」


彼の声には、確信というより、恐れと戸惑いが滲んでいた。


その言葉に、ナヴィはわずかに目を細めた。

指先が無意識に湯呑みの縁をなぞる。

数秒の沈黙の後、彼はぽつりと答えた。


ナヴィ「……ああ。たしかに。

この世界に、あれほど完全な“不老不死”が複数いるとは思えない。

ベルが災害の引き金だったとしたら……」


ノクスはふと視線を落とし、テーブルの蝋燭を見つめた。

炎が揺れ、長く伸びた影が壁に踊る。

その揺らめきが、何か不確かな“兆し”を伝えているように思えた。


ノクス「……その視線も、もしかしたら」


ノクスは声を低める。


ノクス「支脈の呪徒たちの怨念……まだどこかで動いている、彼ら自身の目、なのかも知れない」


その瞬間、客間の戸がかすかに揺れたような気がした。

蝋燭の炎が一瞬だけ強く揺らめく。


儀式の間は静まり返り、燭台の灯りが薄暗く揺れている。

壁にかかる影が、無言で動くような不安を与える。


作業台の上には、古びた巻物と共に、獣骨や水晶、鉱石が無造作に並べられ、中央には羊皮紙が一枚、静かに広げられている。


マルベラはその羊皮紙を丁寧にベルの体に乗せ、床に描かれた魔法陣に膝をついて座った。

詠唱を始める前に、彼女は一度深く息を吸い込み、目を閉じた。

その瞳には迷いも、恐れも見せず、ただ静かな集中が宿っている。


手が軽く震えながらも、マルベラは一言一言、呪文を口にする。

右目の魔晶石が淡い光を放ち、その光が羊皮紙の五重螺旋に反射して、暗闇の中に静かに浮かび上がる。


その瞬間、部屋の空気が一変したような気配を感じた。


マルベラはその異変に一瞬気を取られたが、すぐにまた集中を取り戻す。

彼女の視線はベルの体に向かい、浮かび上がる呪いの糸に、ただひたすらに向き合い続けた。


マルベラはナヴィが運んできたルクシアの燈芯を箱から取り出す。


それは光の神ルクシアの神殿でのみ作られる特別な儀式用の芯材で、祝福された銀糸と聖草が編み込まれている。

燈芯に火を灯すと、そこから神聖な光が生まれる。

その光は邪悪な力や呪いを一時的に遠ざけ、神の加護を儀式の空間に招き入れるために使われる。


ルクシアの教団を追われたマルベラが、今もなお持つ唯一の燈芯。


マルベラは燈芯に祈りの言葉を静かに唱え、その光を五重螺旋の紋の中心に浮かべた。

神聖な光が空間に漂うことで、呪術的な空間の中に不釣り合いな清らかな輝きが灯る。


ベルの魂に根ざし、絡みつくその糸、通常であれば触れただけでも深い痛みが走る。

だが、マルベラは躊躇うことなく、その糸に手を伸ばした。

彼女はまず、魔力を使ってベルの魂に深い眠りを強制的に促す。

その眠りに沈むように、糸を操って意識を深い暗闇へと導いた。


目の前の五本の糸、それぞれが違った意味を帯びていた。

夢を縛る糸、精神を縛る糸、言葉を結ぶ糸、心を結ぶ糸、命を縛る糸――。

それらが絡み合い、ベルの存在そのものを縛りつけている。


慎重に、だが確実に、マルベラは一つずつ糸を解き始めた。

力を込めるごとに、糸がわずかにきしみ、闇の中で微かに光を帯びる。

マルベラは静かに、だが冷徹に手を動かし、その崩壊を見守った。

光にかざす度に、糸が音もなく崩れていく。


燈芯の光が揺れる中、マルベラはその光をじっと見つめた。

その光が弱まりつつあることを感じながら、心の中でひとつ、深い息をつく。


彼女はルクシアの教団を追われ、この街に住み着いた。

長い年月、暗いことも行いながら生きてきたがこの瞬間、確かに救いの手を差し伸べることができた。

トーノと出会い、彼の命もまた終わりに近づいている。

そして、おそらく自分の命も、長くはないだろう。


マルベラの手が、ベルに残された最後の一本、最も深く根を張る糸へと伸びる。

それは――《命を結ぶ糸》。


肉体と魂の自由を根源から縛る、呪いの核。

その存在はベルの不死そのものへ深く絡みついていた。

マルベラの指先がかすかに触れただけで、彼女の中に異質な熱が流れ込んでくる。

強すぎる。

下手に解除を試みれば、ベルの魂そのものに直接干渉する。

この呪いを施した術者はその“不死”に結ばれている可能性が高い。


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