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3-64

※3-61〜3-63について、掲載順を間違っていたので訂正しております。

マルベラの館の儀式の間。そこにいるのはマルベラとノクス。

外の世界に満ちる薄闇や喧騒は、ここには届かない。


重く閉ざされた扉の奥、石造りの天井の高い部屋に、蝋燭の小さな炎が静かに揺れていた。

その光は壁に刻まれた呪文めいた文様を舐めるように照らし、棚に並ぶ古書と巻物、そして獣骨や水晶、鉱石が整然と並ぶ作業台に奇妙な影を落としている。


まるでこの部屋そのものが、長い時を経た魔術器具のように沈黙していた。


空気はひやりと冷たく、それでいて何かが軋むような、見えない力の緊張感が漂っている。



マルベラは、使い慣れた手つきで大理石の机の上に一枚の羊皮紙を広げた。

それは色褪せた古文書でありながら、まるで今なお命を宿すかのような存在感を放っていた。

複雑に絡み合う幾何文様と、象形のような印が骨格のように配置され、その中央には五重螺旋――封印の核と思しき紋が据えられている。



マルベラ「ここだよ」



マルベラの細く皺を刻む指が、螺旋の中心に触れる。

それは確かに、何かを押しとどめ、あるいは閉じ込めるための“鍵”のように見えた。



マルベラ「古式の符写と、この補助環……特にこの周辺、少しでも歪むと流れが乱れる。不安定なんだ。精度が必要になる」



彼女が言う間も、ノクスは黙って筆を取り、無造作にも見える動きで、迷いなく幾何をなぞっていく。

筆先から生まれる線は滑らかで淀みなく、まるで呪文が自ら姿を顕しているかのようだった。


マルベラはその様子を一瞥し、ふと目を細める。



マルベラ「……やっぱりね。呪いに触れてきた手だ」



どこか皮肉めいた、だが確かな確信を含んだ声。

ノクスは一瞬手を止めたが、やがて筆を進めながら、曖昧な笑みを浮かべる。



ノクス「さあ、どうだろうな。手に馴染むだけだよ」



そう言って、彼は再び紙の上に意識を落とした。

マルベラとノクスは言葉少なに、ただ静かに、黙々と儀式の準備を進めていた。



部屋の中には蝋燭の光がゆらゆらと揺れ、石壁に刻まれた文様や符写の影が、まるで呼吸するかのように明滅する。

乾いた羊皮紙の上を走る筆先の音、粉末薬草を混ぜるかすかな音だけが、静謐な空気の中に溶けていた。



ノクスの目に映るのは、マルベラの手で丁寧に構築されていく解呪の術式。

それはただの呪術ではない。

呪いの根をなぞり、そこに潜む苦しみと罪を理解し、それでもなお断罪せず、光の方へと導こうとする。

そんな物語が、その精緻な線の流れから立ち上ってくるようだった。



ノクス「……これは、すごいな」



思わず漏れたノクスの声に、マルベラは僅かに手を止め、しかし顔は上げずに言った。



マルベラ「解呪は力任せじゃだめなんだよ。呪いの芯は、痛みや執着、願い……そういったものと結びついてる。

だからこそ、それを知り、すくい上げてやらなきゃいけない」



その言葉には、ただ技術を語る者のものではない、どこか祈りに近い響きがあった。



彼女の使う術式には、光と救済の神ルクシアの名が刻まれていた。

神の名にすがることを迷いとせず、それをひとつの希望として受け入れるその在り方に、ノクスは静かに心を打たれていた。



ノクス(この人なら……)



ノクスは筆を動かしながら、ふとそう思った。



マルベラ(この人なら、ベルを縛るあの呪いの糸を、解けるのかもしれない。)



その確信のような感情が、彼の胸の奥で淡く希望を灯す。



ノクスは筆を止め、目の前の術式をじっと見つめた。

その構成は美しく、整っていて、呪いを理解し、受け止め、救済へと導く意志が確かに宿っている。


だが、どこか――ほんの一か所だけ、その光に至る最後の階段が抜け落ちているように感じられた。

まるで、あと一歩が届かない。手を伸ばしても届かぬ微かな距離がそこにあるような。



ノクスは何かが足りない、と心の奥でそう呟こうとした時だった。



マルベラ「今に届く」



マルベラの声が、淡々と、それでいて確信に満ちて響いた。

まるでノクスの心の機微を読み取っていたかのような、曇りなき声だった。



その言葉の余韻が室内に染み込んで消えた頃、扉がわずかに揺れ、小さなノックの音がした。

トーノだった。無言のまま、必要最低限の動きで扉を開け、静かに身を引く。



その少し後、足音と共に、ナヴィが息を切らしながら部屋へと飛び込んできた。


乱れた髪、額に浮かぶ薄い汗。

彼の姿は、この場の静謐と対照的でありながら、どこか物語の最後の欠片が嵌まるような、必然を感じさせた。



マルベラ「ご苦労さま、疲れたろう」



マルベラは口元ににやりと笑みを浮かべ、労うような、それでいてどこかからかうような声をかけた。



ナヴィ「……こうなることを知ってたんだな」



ナヴィは眉をひそめ、息を整えながら低く呟いた。

その声には怒気はなく、ある種の諦めと、苦笑めいた情がにじんでいた。



マルベラ「ああ。だからこそお前にしか頼めなかった」



マルベラの声音は、先ほどとは違い、静かな敬意に満ちていた。


ナヴィはしばしその言葉を受け止めるように沈黙し、そして――



ナヴィ「……ああ、俺にしかできなかったな」



かすかに笑みを浮かべた。

それは皮肉にも似ていたが、否定ではなく、どこか信頼と絆を含んだ表情だった。


彼の腕の中から差し出されたのは、小さな木箱。

しっかりと封が施された古びた箱だった。



マルベラはそれを、まるで神に捧げる供物を扱うかのように、両手で恭しく受け取った。

その所作は、神ルクシアに仕える神官を思わせる気高さと、信仰に裏打ちされた静かな熱を宿していた。



そして再び部屋に、張り詰めた空気が戻る。



その言葉の余韻がまだ空中に漂っていたころ、

部屋の戸が小さく「コン」と音を鳴らして開いた。


入ってきたのは、沈黙の中に立つひとりの少女。

ベルだった。



彼女は静かに、どこか浮世離れした足取りで儀式の間に踏み込む。

その姿に、誰も言葉をかけない。ただ、その存在の重みが場に浸透していくようだった。

いつの間にか、トーノが彼女を呼びに行っていたらしい。

少年の姿はすでにない。彼の気配は、引き戸の向こうに消えていた。


マルベラは軽く頷くと、横目でナヴィとノクスに視線を送った。



マルベラ「ここからは、私と彼女だけだ。儀式の構造上、そう決まっている」



ナヴィは何か言いたげに眉をひそめたが、すぐにその表情を収める。

一歩、また一歩と重たい足取りで扉の方へと歩き出す。


ノクスも無言のまま、術式の道具を一つ一つ丁寧に机の隅に寄せてから立ち上がる。

その目には、名残惜しさと、ひとつの物語から離れる静かな敬意が宿っていた。



ふたりが戸口に立ったとき、ナヴィが小さく振り返った。

ベルの姿を目に映し、ほんのわずかに息を飲む。



その背には、言葉にならない感情が張りついていた。


やがて戸が静かに閉まる。

その音が部屋の中に落ちた瞬間、マルベラが深く息を吸い込んだ。



マルベラ「それじゃあ――始めるよ」




その声とともに、部屋の空気が変わった。


温度でも、気流でもない。

それは、空間の膜がひとつ内側へ折りたたまれたような感覚。

外界の音も光も遠のき、蝋燭の灯だけが現世の名残として揺れていた。


そして、儀式が静かに始まる。

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