3-63 ※
※掲載エピソードを飛ばしたので訂正して掲載します。
先ほどまでは、トーノとの組み合わせに対する下世話な好奇の目だった。
だが今、視線は明らかにナヴィひとりに向けられている。
まるで、夜の灯火に吸い寄せられる羽虫のように——無数の意識がこちらへと絡みついてくる。
ナヴィは舌打ちした。
不快さと苛立ちを押し殺し、傍らのトーノに目を向ける。
ナヴィ「……先に戻れ。あとは俺がやる」
短く小声で囁く。
トーノは何かを言いかけたが、その空気の異様さに気づいたのか、すぐに口をつぐみ、静かに頷いた。
ナヴィは、遠ざかっていくトーノの小さな背中をしばし見送った。
背中を丸めるようにして歩く少年の姿に、誰も視線を向けていない。
まるで風のようにそこに存在しないものとして、人々は彼を通り過ぎていく。
ナヴィの予想は正しかった。
──やはり、こういうことか。
胸の内で静かに呟きながら、ナヴィは懐にしまった木箱にそっと手を添える。
この街にとって“光”とは、それだけで異物であり、祈りであり、呪いでもあるのだろう。
マルベラはそれを知っていた。
だからこそ、この街において“光”を運ぶ役目を、己ではなく、ナヴィに託したのだ。
ナヴィの中で、どこか納得のいく感覚が広がる。
だがその納得とは裏腹に、視線の重さが一層強くなるのを感じた。
まるで夜闇に灯した小さな火に、無数の虫が群がるように。
人々の眼差しが、粘ついた熱を帯びてナヴィに向けられていた。
ナヴィは小さく息を吐き、片手を掲げる。
掌に冷気の魔力を集め、短く詠唱を呟くと幻影の術式を発動させる。
淡く白い霧が彼の周囲に渦巻き、輪郭をぼかし始めた──
……だが、その霧はすぐに風にさらわれるように散り、消えた。
ナヴィは苦笑する。
魔術を乱す何かが、この街の空気そのものに染みついている。
静かに舌打ちを一つ。
視線を感じて振り向くと、通りの陰から、廃屋の軒先から、広場の角から、ひとり、またひとりと人々が歩み出してくる。
年老いた者、顔を包帯で覆った者、病に侵されたかのように震える者──
彼らはナヴィに向けて、まるで夢でも見ているかのような目をして手を伸ばす。
「……助けてくれ……」
「光を……その光を……」
「お願いだ……少しでいい、少しだけ……!」
ナヴィはその手の群れを、ひらりと身を翻してすり抜ける。
腕の一つがコートの裾を掴もうとしたが、風のような動きでかわす。
その瞳には、怒りも同情もなかった。ただ冷静な光が、瞼の奥で静かに燃えているだけだった。
ナヴィは、道具屋の老人がふと漏らした言葉を反芻する。
──「穢れに触れれば、輝きは濁る」──
その言葉が今、脳裏に張りついて離れなかった。
魔法がうまく発動しない理由は分かっていた。
この街そのものが何かを蝕んでいる。
空気は澱み、建物の影には言葉にならない気配が漂う。
かつては人であったものの残滓か、あるいは、今も名ばかりの理性で繋ぎとめられた人間たちか。
「おい……頼む、あんた……癒してくれ……!」
最初に声をかけてきたのは、服の袖がボロボロになった中年の男だった。
その手が伸びてくる。
だが、ナヴィは躊躇なく身を翻し、避ける。
男は崩れるように地面に膝をついた。そこへ、次々と別の住人たちが現れた。
「お前、光の……そうだろ?」
「なあ……俺の子が、もう三日も、熱が……」
「助けてくれ……助けてくれよ……!」
視線は熱を孕み、無数の手が、次から次へと、ナヴィへ向けて伸ばされる。
肩を掴もうとする者、服の裾を掴んで放さない者、ただ泣きながら跪く者。
地面に這いずるように、彼に縋ろうとする彼らの姿は、人ではなく飢えた獣にすら見えた。
それでもナヴィは歩みを止めなかった。
無言でその手をすり抜け、地を這う声に耳を貸さず、ただ足を進める。
魔法がうまく発動しなくとも、彼らを黙らせる術はいくらでもあった。
それをすれば、自分もまた“穢れ”に近づくことになる。
ナヴィは静かに、そう思う。
この光を濁らせてはならない。
だが、このままでは、マルベラの家まで影が押し寄せてしまう。
それだけは避けなければならなかった。
ナヴィはわずかに息を吸い、手のひらに冷気を込めた。
結晶のように煌めく霧が周囲を包み、その一瞬の隙に壁を蹴り上がる。
ざらついた石壁を駆け、屋根へと跳ね上がる。
下から、なおも彼を見上げる眼差し。
闇の中にわずかな光を見つけ、すがるように伸ばされた手の群れ。
下に残された人々は、なおもその場で空を仰ぎ、手を伸ばしていた。
焦点の合わない瞳で、ただそこにいた「救い」を探し続けながら。
ナヴィは瓦の隙間を縫うように、猫のような足取りで影から影へと移る。
屋根の上は風がよく通り、街の淀んだ空気も幾分かましに感じられた。
その瞬間までは。
まるで、焼けた鉄を肌に押し当てられたようだった。
突如、背中に「何か」が叩きつけられた。
それは視線というにはあまりに異質で、
肉体を焼くような熱――いや、魂そのものを炙り出すような激しさだった。
それはただの視覚ではなかった。
骨の奥を貫き、心臓を鷲掴みにし、意識の深淵に杭を打ち込まれるような……「見られている」という概念が、暴力として襲いかかってきた。
息が止まりそうになる。
肉体の反応より先に、精神が本能的に逃げようと悲鳴を上げる。
ナヴィは反射的に振り返った。
だが、そこには何もなかった。
風の音すら、先ほどよりも冷たく、重く、鈍く感じられる。
視線の主も、その方角すらわからない。
まるで夢の中で剣を突きつけられたような、現実味のない感覚が残っているのに、痕跡は何もない。
それが、より恐ろしかった。
意識を研ぎ澄ませようとしたが、この街の空気は濁っていて、魔術の感覚を狂わせる。
何かが、ひどく歪んでいる。
ナヴィは口を固く閉じ、静かに屋根を駆けた。
その背にはまだ、あの「視線」の残り香が爪を立てていた。
彼は舌打ちし、足を速めた。
空気は濁り、光は褪せ、影はひたすら深くなる。
不安を押し殺すように、マルベラの家へと歩を進めていく。