3-62 ※
※掲載エピソードを飛ばしたので訂正して掲載します。
朝の空気は湿り気を帯び、灰色の雲が空に張り付いたまま動かない。
通りには人気がまばらで、扉を閉ざした家々の窓から、かすかな視線だけが漏れていた。
昨夜、マルベラの家でのやり取りが脳裏に蘇る。
彼女は儀式に必要な品の一つを、二人に託したのだった。
マルベラ「トーノ。あの店の爺さんに、この紙を渡してくれ。深い棚の奥にあるはずだ。少しばかり……癖のある代物でね。貴重な素材だ。道中、気を抜くな」
マルベラがわざと意味深に微笑んだそのときの顔を思い出し、ナヴィはため息をつく。
ナヴィは重い足取りで、先を行くトーノの背を追っていた。
トーノは何も言わない。
ただ背筋をまっすぐ伸ばし、一定の速度で歩き続ける。
マルベラの家では、言葉少なながらも短いやり取りがあったはずだ。
だが今は、まるで何かを避けるように、沈黙が二人の間に落ちていた。
理由はわかっていた。
ナヴィと共に歩くことで、余計な視線に巻き込まれることを、トーノは恐れているのだ。
一歩、裏通りへと踏み入れたとき、ナヴィの耳に風が潜めた声を運んできた。
――マルベラの小間使いが、客を取らされてるって噂、本当だったのか。
――俺が前から目ぇつけてたのに。
――いや待て、あの男……竜人じゃないか?
――気を緩めさせて、材料にする気なんだろう。あの婆、やりかねん。
低く、ねっとりと絡みつくような声。
姿は見えずとも、蔭からの好奇と悪意に満ちた視線が、ナヴィの背中を刺してくる。
ナヴィは小さく舌打ちしそうになり、それをぐっと堪えた。
くだらない。
口にすればきっと、より多くの敵意が寄ってくることを知っていた。
ナヴィの視線は先を歩くトーノの背に向いたまま、ほんのわずか、風に紛れて息をついた。
この街の空気は朝から腐っている。
それでも必要なものを手に入れるために、行かなければならない。
路地の奥、傾いた屋根の下に吊るされた木の看板には「道具屋」と掠れた文字が残っていた。
時の流れに削られたその佇まいは、この街の忘れられた歴史の一端を物語っているようだった。
軋む扉を押して中へ入ると、小さな鐘がカラン、と乾いた音を立てた。
店内は薄暗く、棚のひとつひとつが年代物の道具や瓶、用途の定かでない魔具で埋め尽くされていた。
空気は古びた紙と薬草の匂いに満ちており、ほこりが光の筋に舞っている。
ナヴィはその空間を物珍しげに見回す。
雑然とした中にも秩序があるこの店の様子は、どこか安心感を与える不思議な雰囲気をまとっていた。
やがて、奥の帳からゆっくりと姿を現したのは、腰の曲がった白髪の老人だった。
鼻筋が通り、瞳は年齢に似合わず澄んでいる。
他の住民たちのような猜疑や嫌悪の色はなく、ただ、静かな観察者の眼だった。
「おや、トーノじゃないか」
老人は柔らかい声でそう言い、ほんのわずかに目を細めた。
街の視線にさらされ続けてきたトーノは、そのひと言でふっと肩の力を抜いたようだった。
息をつき、わずかに微笑む。
トーノは無言で紙片を差し出す。
老人はそれを受け取ると、目を通しながら小さく頷いた。
「なるほど……あの婆さんからの預かりものか。たしかに受け取ってるよ。保管料も前払いでな」
言いながら、老人はゆっくりと奥の棚へ向かい、埃をかぶった小さな木箱を取り出した。慎重に、それをカウンターの上へ置く。
「これは《ルクシアの燈芯》って呼ばれる代物でね。神聖な光を宿すための媒質だ。光の神に祈るための導火線みたいなものさ」
老人の手が箱の蓋に触れたが、けして開けようとはしなかった。
「取り扱いには注意しな。ほんのわずかでも穢れに触れれば、輝きは濁る。そうなれば、祈りも届かん」
そう言って、老人は箱の周囲に護符のような布を丁寧に巻きつけ、再び慎重にナヴィへと差し出した。
「……この街には、眩しすぎる光かもしれんがね」
店主の静かな言葉に、ナヴィは黙って古い木箱を受け取る。
それは持つ手にほんのりと温もりを感じさせた。
「この街には、救いを求める者が多い。そういう連中は、自分でも気づかぬうちに惹きつけられてしまう。だからこいつは、うちの金庫の奥にしまっていたんだ。……気をつけな」
その言葉を最後に、店主は再び帳の奥へと姿を消した。
ナヴィは静かに頷き、トーノと共に店を後にする。
外に出ると、空気はどこか淀んでいた。
ナヴィは箱をそっと懐にしまいながら、確かにそこに「何か」を感じた。
聖性。清らかさ。
だがそれは、あまりにも理想的で、現実から乖離しているようにも思えた。
ナヴィ(……そこまでのものか?)
内心で呟く。
ナヴィにとって「救い」も「光」も、とうにエラヴィアという存在に集約されていた。
それ以外の輝きなど、ただの飾りにすぎない。
しかし、足を進めるうちに、街の空気が微かに変わっているのに気づく。
何かが、違う。
視線の熱が……濃く、粘ついていた。