3-60
※少し残酷な描写があります。
実験が始まった。
一瞬の静けさの後、低くうなる装置の音が響き渡った。
観星塔の最上階、ベルの入った容器を満たす液体の中から、微かな光の粒が揺らめき、魔力の流れが始まる。
地下室まで魔力が到達すると、空気が震え装置の奥から魔力がゆっくりと流れ出した。
薄暗い観星塔の地下に、ベルの秘めたる力が満ちていく。
最初は滑らかだった。
魔力は装置によって変換され、柔らかな光となって導管を流れ、街の各所に立つ魔導柱へと注がれていく。
それに呼応するように、街の灯りが一つ、また一つと灯っていった。
暗がりは淡い光に塗り替えられ、期待と安堵が空気ににじむ。
これはただ、街の灯りをともすための実験だった。
ベルの魔力を安全に変換し、魔導柱へ送る。
それだけの、ごく単純で、制御されたはずの工程。
「……様子が、違う」
街の様子を記録していた者が、低く呟いた。
街の明かりが、どこかくすんで見える。まるで、闇に灯がともされたような、不吉な色。
「変換が……されていない?それに、魔力が街に広がってる……?」
技術者の声に、じわりと焦りが滲みはじめる。
本来なら、魔力は変換を経て魔導柱へと流れ、街灯を穏やかに照らすはずだった。
だが今、装置を通り抜けた魔力は制御を逸れ、魔導柱以外の経路へとにじみ出している。
目に見えぬ裂け目から、異質な力が滲み出し、静かに、しかし確実に、街全体を染め上げていく。
異変を察知した《魔力を扱う者たち》とその代表者が、急ぎ地下の制御室へと駆け込んだ。
だが、そこにいたはずの技術者たちは倒れ、床に横たわっていた。
制御盤の周囲には、使われるはずのない工具が散乱し、装置の部品には不自然な痕が刻まれている。
正気とは思えぬ手つきでいじくられた形跡に、誰もが言葉を失った。
漂う空気が変わっていた。
装置の残滓から立ち上るのは、ベルの魔力に似ているようで、まるで異なる。
それは、より深く、暗く、重たい――呪いにも似た魔力だった。
測定器など必要なかった。
ただ肌で、骨の芯で、誰もがそれを理解した。
代表者の一人が膝をつく。
吐き出される魔力に膝が折れたのではない。
その奥に見えた“存在”に、心を揺さぶられたのだ。
少女ベル。その背後に、いる何者か。
「……始めから、上手くいくはずがなかったのか」
吐息のような呟きが空気に溶けた瞬間――
装置が悲鳴を上げ、弾けるように爆ぜた。
轟音とともに観星塔全体が大きく揺れ、天井の石が崩れ落ちる。
魔力の奔流が制御を失い、何もかもを巻き込むように広がっていく。
ベルの魔力が街に広がったのは、実験開始から装置が壊れるまでの、ほんの一瞬の出来事だった。
けれどそのわずかな時間が、街の均衡を揺るがすには充分だった。
静かに、しかし確実に――それは根のように街全体へと浸透していく。
空気の質が変わった。肌を撫でる風が、どこか冷たく湿っている。
灯された光は、本来の白ではなく、赤や紫に濁り、灯りのはずが闇を吐いているかのようだった。
家々の窓が軋むように開き、住民たちは吸い寄せられるように外へ出てきた。
誰も声を発さず、ただ街の中心を見つめる。
ゆっくりと、音もなく崩れていく建物。魔力の奔流に引き裂かれた構造物たち。
泣く子も、叫ぶ者もいない。
不安というより、理解を超えた“何か”に呑まれたように――。
ただ、不吉な光に照らされながら、人々は静かに立ち尽くしていた。
崩れ、燃えゆく観星塔。
炎の舌が、最上階の床を這うように忍び寄る。
その床には、ひび割れた容器から漏れ出た液体が広がっていた。
それは、死してなお呪いを放つ魔物の保存液をベースにした、魔力遮断のための特別な液体。
それは、引火性が高かった。
炎の舌先がそれに触れた瞬間、爆ぜるように火花が広がり、部屋はたちまち炎の海と化した。
赤々と揺れる炎が、容赦なく中央に倒れ伏したベルの体を包み込んでいく。
焼ける音がした。皮膚が焦げ、髪が炎に揺れる。
部屋の隅で身動きもできずにいた監視役の技術者たちは、息を呑む。
だがその目に映ったのは、炎の中でゆっくりと起き上がるベルの姿だった。
焦げた皮膚は、すでに再生を始めている。
赤黒く焼かれた封印の紋は、皮膚ごと焼き尽くされ、痕跡すら残していなかった。
静かに、確かに、ベルの瞳に意志の光が戻る。
監視役たちを一瞥したベルは、何事もなかったかのように炎の中を歩き出す。
その足取りに迷いはなく、ゆらめく火の中でもひときわ異質な静けさを纏っていた。
取り残された者たちは、動くこともできず、ただその背を見送った。
恐怖も、逃げる意志も追いつかないまま、燃え盛る炎の渦に呑まれていった。
塔から出たベルを、誰一人として追う者はいなかった。
塔の崩壊と炎に巻き込まれた技術者たちは、瓦礫の下に沈むか、恐怖に縛られて動けなくなっていた。
街もまた、静かに崩れつつあった。
魔力機構に依存していた建物の多くが、支えを失って軋みを上げ、軒並み崩壊を始めている。
住民たちは不安げに家の前に佇み、言葉も交わせぬままただ立ち尽くしていた。
それは、ベルの魔力が制御を離れて街へと滲み出した、不吉な気配が、知らず知らず人々の心に影を落としていたからかもしれない。
その闇の中を、ベルは一人歩いていた。
炎に包まれ、焼け落ちたはずのその身体は、今や髪の先まで無傷だった。
淡い月明かりの中、黒ずんだ布地の外套に身を包んでいる。
どこかで見つけたのか、それとも途中で誰かのものを借りたのか。
その装いには、もうあの実験に囚われていた少女の面影はなかった。
沈黙の街を、ただ静かに、ベルは歩き続けていた。
避難しようとする住民たちの列の中に、ベルは見覚えのある姿を見つけた。
この街で、ひととき穏やかな時間を共に過ごした老夫婦。
ベルを雇い、住む場所を与え、娘のように接してくれた、魔道具店の主たちだった。
二人は混乱の中、必死に誰かを探すように周囲を見渡している。
その姿に、ベルの心がふとわずかに揺れた。
しかし、その背後で老夫婦の魔道具店が崩れ落ちる。
馴染み深い看板が音を立てて割れ、瓦礫に埋もれていく。
その音が、夜の空気に鈍く響いた。
ベルはその光景にそっと目を伏せ、首を振った。
もう、戻ることはできない。
彼女は静かに唇を動かす。
ベル「……さようなら」
その声は、誰にも届かないほど小さく――風に溶けるような囁きだった。
そして彼女は、夜の闇へと姿を消す。
かつてこの街を訪れたときの、あの穏やかで賑やかな喧騒とは、まるで違う音を背にして。