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技術者たちの実験は加速した。
それは成果を上げ、出資者の男を黙らせたいという思いから来るものだった。
そして、一部の技術者たちの目つきが変わった。
まるで、あの男が纏っていた異様な欲望が、彼らに感染したかのように。
ベルの封印を段階的に弱めることで反応を引き出す。
それは確かに実験の効率に関係した。
しかしその反応を欲し、無意味な行動を重ねるものも出てきた。
薬液の瓶が床に落ちる。
中身が跳ね、透明な液が腹部を濡らした。
それは不自然な動きだった。
誰の目にも「事故」には見えなかった。
技術者は無言で近づき、布で拭う。
一度、二度。
やがて布越しの動きは滑らかになり、意味を失っていく。
指先は、肌の温度を確かめるように往復しながら、同じ場所を何度もなぞった。
ベルの目が、かすかに男を捉える。
意識は揺らぎ、焦点も不確かだったが、確かに「見る」という行為がそこにあった。
彼女の眉がわずかに寄り、喉が震える。
ベル「……あ」
音ともつかぬ音が洩れる。
悲鳴でも拒絶でもない。
けれど、確かにそこには意志があった。
男の動きが止まる。
息が詰まるような沈黙。
その瞬間、彼の目に浮かぶのは恍惚。
異様な熱と陶酔が混ざり合った、濁った光。
誰かが小さく笑った。
別の誰かは息を呑み、背筋を震わせた。
反応を見ていた者たちの瞳も、次第に似た色を帯びていく。
計測の触手は、徐々に肌の奥深くへと忍び寄っていった。
胸のふくらみに沿って、冷えた紋章の板が押し当てられる。
腹部の柔らかな皮膚には、魔力を感知する印が、淡く発光しながら貼り付けられる。
太腿の内側、普段なら決して触れぬはずの場所にも、指先が何かを測るための術具を滑り込ませた。
必要とされたのは、魔力の波形。
その流れ、密度、変調。
だが、誰の手も、その目的を口にすることはなかった。
彼らの指先は、ただ繰り返し、意味を超えた動作を続ける。
肌の上に長くとどまり、何度も撫で、なぞり、押しつけた。
ベルの身体がわずかに震える。
声にならない音が、喉から漏れる。
それはかすれた息のような、押し殺された呻きのような意思の輪郭が霞むほど、か細い拒絶。
細く開いたまぶたの奥、瞳がわずかに揺れる。
感情とは呼べぬものが、そこにはあった。
冷たく、濁ったまなざし。
けれど確かに、痛みと恐怖を知る意識が、そこに宿っていた。
部屋には沈黙があった。
けれど、視線が語っていた。
触れる者も、見守る者も、口を閉ざしたまま、心の奥で同じ飢えを抱えていた。
「……見ろよ、あの反応。まるで意識だけが閉じ込められてるみたいだ」
誰かが低く呟く。
その声に答えるように、歪んだ笑みがいくつも浮かんだ。
研究において、最初に成果を上げたのは《不死を追求する者たち》だった。
彼らはベルの体組織の微細片を抽出し、それを溶解・加工した特殊な薬液を介して、小動物や実験用に飼育された鼠型の魔物に投与した。
最初はただの延命措置に過ぎないと考えられていた。
だが、薬液を投与された魔物たちは、通常より二倍、三倍もの寿命を保ったまま活動し続けた。
死に至るはずの傷も再生し、内臓の衰えすら止まったかのようだった。
だが変化はすぐに現れた。
魔物たちの毛並みは徐々にくすみ、やがて灰のように変色した。
瞳の輝きは消え、濁った硝子玉のようになり、何かを渇望するように周囲の空間を彷徨うようになる。
中には体の構造まで異質に歪むものまで現れた。
目立ったのはその異常なまでの攻撃性だった。
それまで温厚だった個体が、技術者に飛びかかり、檻の鉄格子に体をぶつけ続ける。
絶え間なく唸り声を上げ、食料すら見境なくむさぼった。
ある個体は自らの前足を噛みちぎり、傷の再生を確かめるように何度も繰り返した。
またある個体は他の魔物を襲い、その体液を舐め、まるで何かを補おうとしているかのようだった。
技術者の一人が、苦悶の声でこう言った。
「……これは、体が不死に近づいても……魂が追いつけていないんじゃないか……?」
観察者の一部は静かに震えていた。
ただの延命、ただの再生ではない。
魂を失いながらもなお生きるそれは生命とは呼べない何かだった。
しかし実用には程遠いものの、ベルの不死性を外部に取り出し他の生き物に適用させると言う実績を得たのは事実。
少しずつ、だが確実に成果は現れ始めていた。
ベルの不死性は未だ完全な解明には遠かったが、ごく一部の性質を外部に取り出し、限定的に適用する手法が確立されつつあった。
そして、その実績は《魔力を扱う者たち》に新たな目標を与えた。
街を動かす魔力機構の根幹に、ベルの魔力循環そのものを組み込み、永遠に枯れぬ源とする。
理論的には可能だった。
何万年にもわたって揺らぎもせず続く魔力の供給。
意志と人格を持つ存在を、ただの装置へと変えようとする発想。
動かぬ魔力炉心の中に閉じ込められた少女。
それが、彼らの目指す“完成図”だった。
《魔力を扱う者たち》の研究は、ある一点において急速に進展していた。
それは、ベルに「刺激」を与えることで、肉体の反応に伴い魔力が漏出するという現象だった。
漏れ出す魔力は濁りなく、極めて純粋。
何より、それは他の手段では得られない“生きた魔力”だった。
彼らはベルを、魔力を一切通さない特殊な液体に沈めるという方法に至る。
呼吸のできないその液中でも、彼女が不死である以上、死ぬことはない。
むしろ酸素を奪われることで肉体が極限状態に至る過程そのものが、“刺激”として最適であるとされた。
液体に沈んだベルの体に繋がれた導線は、魔力の波を拾い、精密な変換装置へと流れ込む。
すでに幾つかの実験は成功を収めていた。
魔力を回収し、利用可能な形に変換する技も、あと一歩のところまで来ている。
だが――問題が一つだけあった。
技術者たちは、《蛇の法衣》の禁書に記された記録を通じて、それを知っていた。
ベルの魔力が空に近づいたとき、発動する現象。
それが「死神の揺り籠」だった。
それは一種の自動防衛機構であり、彼女の魂と肉体を死神の領域へと隔離する。
不可侵の殻が彼女を包み、外界からのすべての干渉を拒絶する。
発動した揺り籠の内部では、時間の流れすら異なる。
人の生命を越える時間、ベルは沈黙の中で眠り続けるのだ。
それだけは避けなければならなかった。
魔力の枯渇によって“封鎖”されてしまえば、すべての作業が無に帰す。
ゆえに、魔力を空にせず、かつ効率的に滲ませ続ける最適な“刺激”が求められた。
幾度となく繰り返された実験。試行錯誤の末に、条件はすべて揃った。
そしてその日――ベルの魔力を、街の魔力機構へと接続・供給する仕組みが完成した。