3-57
その朝は、異音で始まった。
重く密閉されたはずの扉が、軋みを上げながらゆっくりと開く。
外の光が、長く閉ざされた部屋に斜めに差し込んだ。
まるで結界が破られたかのように、部屋の空気がぴたりと止まる。
何人かの研究者が手を止め、視線を交わす。
それは確認というよりも、無言の警戒だった。
「……来たのか」
誰かの呟きが、ほとんど息のように漏れる。
現れたのは、黒い外套に身を包んだ男。
歳は不詳。
肌は蝋のように白く、目元の影が表情の一部を隠していた。
微笑をたたえながらも、その気配には鋭い冷たさがある。
背後には数名の護衛らしき者たちが控え、無言のまま場の空気を抑圧していた。
「この研究がどれほど進んでいるか……そろそろ直に拝見したくてね」
男は軽やかに言いながらも、一歩踏み出すたびに空気が硬直していく。
「資金を出している以上、当然の権利だと思っているが?」
彼の言葉には冗談めいた響きがあったが、それが許される場ではないと誰もが理解していた。
《魔力を扱う者たち》《不死を追求する者たち》――
そのどちらの代表者も、一瞬視線を交わし、わずかにうなずいた。
抵抗する術はない。
いまや彼らの熱狂すら、この男の前では“供物”にすぎなかった。
「……これが、噂の娘か」
男の目が、実験台の上のベルへと注がれる。
その瞳には好奇心ではなく、所有欲と冷ややかな優越が滲んでいた。
まるで、自分の財産が呼吸しているのを確かめるかのように。
「なるほど……生きているのか、これは」
男は歩を進め、無遠慮に手を伸ばした。
その指先がベルの頬に触れた瞬間、部屋の空気がわずかに震えた。
冷たく乾いた皮膚が、少女の柔肌をゆっくりと撫でる。
指は頬から耳の下、そして首筋を這い、鎖骨の窪みで止まる。
まるで何かの構造物を確かめるかのように、慎重で、それでいて執拗な動きだった。
「……美しい造形だな」
男は囁くように言った。
「冷たいのに、柔らかい。まるで死体のようで、しかし……確かに、これは生きている」
口元に浮かぶ笑みは、称賛というには歪みすぎていた。
それは、崇拝と支配欲の混ざり合った、歪んだ悦びの表情。
周囲の研究者たちは、息を潜めるように沈黙していた。
誰一人、動こうとはしなかった。
だがその目には確かに怒りと嫌悪、そして焦燥が揺れていた。
だが、それらすべては口に出されることなく、ただ視線を交わすことでしか示せなかった。
「やめてください……そのような行為は、実験の結果に障ります!」
その沈黙を破ったのは、壁際に立っていた若い術者だった。
声は震えていたが、真っすぐだった。
彼の手は白くなるほど拳を握り締め、口元には小さな血の筋が滲んでいた。
しかし、男は振り返りもせず、くすりと笑った。
「封印が強すぎて、何の反応もない。まったく、つまらないね……」
指を離す瞬間、彼の眼差しにはほんのわずかな“苛立ち”が混じっていた。
「封印を緩めろ」
その言葉に、室内の空気が一瞬で凍りついた。
まるで見えない刃が喉元に突きつけられたように、誰もが息を呑み、動きを止めた。
誰かが椅子を引く音がした。
そのかすかな軋みにすら、全員が神経を尖らせていた。
この研究施設では、出資者の言葉は絶対ではない。
しかし、それに抗うにはあまりにも代償が大きすぎた。
「……それは、危険です。自我が戻りすぎれば、制御が難しくなります」
言葉を選びながら、別の研究者が震える声で訴えた。
彼の額には汗が滲み、握った拳には爪が食い込んでいた。
男は、その姿を見て微笑んだ。
その笑みは冷たく、血の通わぬものだった。
「危険か。だからこそ、見たいのだよ。
真に“彼女”という存在が、どのようなものかをな」
その目――暗く濁った双眸には、狂気の光が宿っていた。
理性の皮をかぶった欲望が、ついに外へと漏れ出す。
それは知への渇望などではない。ただの、喰らうような好奇心だ。
「封印を弱めろ。それが嫌なら、出資は打ち切る」
部屋の空気が、決定的に壊れた。
研究者たちの顔から、色が失われていく。
怒りではなかった。悲しみでもなかった。
浮かんだのは――敗北の色。そして、諦め。
一部の者は、拳を握りしめた。
一部の者は、目を伏せた。
そして誰一人、反論しなかった。
「……わかりました」
誰かが、静かにそう告げた。
それは命令ではなく、儀式の始まりだった。
音もなく、空間に術式の文様が浮かび上がる。
光の粒が宙に舞い、ベルの周囲に淡く輝きながら集まり始める。
それはどこか、祈りの光にも似ていた――
だがその祈りに、救いはなかった。
部屋の空気がひりつく。
結界がわずかに軋み、目に見えない不吉が場に滲む。
「……ぁ……」
それは、言葉にならない声だった。
風に消える吐息のような、けれども魔力を帯びた微細な振動。
耳で聞くというより、脊髄の奥でそれを感じるような、異様な響きだった。
数人の技術者がその声に反応した。
ある者は立ち尽くし、目を瞬かせながら、無意識に額に汗を浮かべる。
ある者は喉を鳴らして息を呑み、冷たい吐息を吐いた。
またある者は、見開いた瞳の奥で、得体の知れない畏怖に背筋を震わせた。
空気が揺れる。
それはまるで、眠っていた獣が目を覚まし、ゆっくりと呼吸を始めたかのようだった。
「……ほう」
場の空気を壊したのは、出資者の男だった。
陶酔したように吐息をもらし、恍惚とした笑みを浮かべながら、瞳を細める。
まるで希少な獲物を手に入れたばかりの猟師のように、手袋を外し、ゆっくりと白布の覆いを払い落とす。
その滑らかな肌には、無数の細かい傷とともに、薬液と魔力が染み込んだ封印の紋様が刻まれていた。
かすかに脈打つように光を帯びるその紋は、未だ彼女を縛る枷であり、同時に、その身に秘められた異質さを際立たせていた。
男の視線がその紋様をなぞるようにゆっくりと這い、目尻がさらに吊り上がる。
眼差しには冷たい興奮が宿り、口元には歪んだ笑みが浮かんだ
「見事な芸術品だ。……まるで“死”を刻んだかのような細工だな」
男は、封印の残滓が微かに輝くベルの肌を見下ろし、低く呟いた。
その声は、賛美と冷笑と所有欲が絡みついた、ねじれた感情の塊だった。
ベルの喉が、かすかに動いた。
ひとひらの吐息のような囁きが、唇から零れる。
それは意識の境界をさまよう夢の断片か、それとも苦痛に抗う無意識の反射か。
意味のある言葉ではなかったが、その響きは空間の魔力をわずかに震わせ、聴く者の心を撫で回すように残った。
男はその微かな反応に、目を細めてほくそ笑む。
そして――再び手を伸ばした。
頬に、首に、鎖骨に。
指先は肌の質感を確かめるように、ゆっくりと、無遠慮に這い回った。
そこには医術も検証も存在しない。あるのはただ、個人的な“触れたい”という欲望の発露だけだった。
触れながら、男はまるで上質な宝石の鑑定でもするかのような口調で言う。
「冷たいのに、柔らかい。……この曖昧さがたまらないな。
生と死の境を踏み越えながら、なおこうして触れられる。……いや、これはもう、手の届く異常だ」
その声に、誰かが小さく息を呑んだ。
だが誰も止められなかった。
それは、彼が出資者だからでもあるし――その欲望があまりにあけすけで、醜悪で、誰も“正気の顔で直視できなかった”からでもあった。
ベルのまぶたが、ほんの少しだけ震えた。
長い睫毛が揺れ、閉じられた瞳の奥に、意志の微光が滲みかけたようにも見えた。
その瞬間、空気がぴんと張り詰めた。
男はその揺らぎに気づかないふりをして、いや、気づいたうえでさらに指を這わせた。
喉元、胸元、肋骨の輪郭に至るまで――感情のない彫刻をなぞるように。
そして、ベルの唇がかすかに動いた。
「……や……」
それは空耳のような、だが確かに存在する音だった。
微かでも、そこには「拒絶」の意思が宿っていた。
室内の魔力がざわついた。
研究者たちは一様に顔をこわばらせる。
誰も声を上げない。ただ、黙って、知らないふりをして目を逸らした。
そして男の口元が、ゆっくりと、異様に歪んだ。
それは笑みの形をしていたが、どこか壊れていた。
欲望と支配、嗜虐と陶酔。
感情が混ざり合い、どれでもあってどれでもない。
醜悪な何かが、そこに露出していた。
瞳の奥に灯る光は、もはや理性の名残すらない。
ただ、本能と執着だけが脈打ち――何か別の生き物のようだった。
「……応えてくれたな」
囁きは、愛おしさすら滲ませていた。
柔らかく、優しい響き。
だがそれは、壊れた玩具を前にした狂人の語りかけだった。
「成果が出ないなら……この娘を一晩、私に貸せ。
私の手で、じっくりと“引き出して”やる……そのほうが、ずっと早いだろう?」
声には甘さすらあった。
だが、その甘さの奥底にあるものは――血と肉を舐める獣の熱。
その言葉に、室内の温度が数度下がったかのように感じられた。
技術者たちの背筋を、目に見えない氷が這った。
息を呑む音もなく、ただ沈黙だけが場を支配する。
誰もが、叫びたかった。
拒絶を、怒りを、恐怖を。
だが、誰ひとりとして、声を出せなかった。
口を開いた瞬間、何かが終わる。
その確信が喉を塞いでいた。
男は、返答を待つことすらしなかった。
すでに全てを手にした者のように、満足げに肩をすくめ、ゆっくりと背を向ける。
重たい足音が、静けさを削るように廊下を遠ざかっていく。
その音が完全に消えるまで、誰も、息を吸うことすらできなかった。
そして、その日を境に、研究は確かに変質した。
男が持ち込んだ歪んだ熱が、技術者たちの胸の奥に潜んでいた感情を暴いた。
研究室の空気は重く淀み、異様な熱気が渦巻いていた。