表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
148/201

3-57

その朝は、異音で始まった。

重く密閉されたはずの扉が、軋みを上げながらゆっくりと開く。

外の光が、長く閉ざされた部屋に斜めに差し込んだ。

まるで結界が破られたかのように、部屋の空気がぴたりと止まる。


何人かの研究者が手を止め、視線を交わす。

それは確認というよりも、無言の警戒だった。



「……来たのか」



誰かの呟きが、ほとんど息のように漏れる。


現れたのは、黒い外套に身を包んだ男。

歳は不詳。

肌は蝋のように白く、目元の影が表情の一部を隠していた。

微笑をたたえながらも、その気配には鋭い冷たさがある。


背後には数名の護衛らしき者たちが控え、無言のまま場の空気を抑圧していた。



「この研究がどれほど進んでいるか……そろそろ直に拝見したくてね」



男は軽やかに言いながらも、一歩踏み出すたびに空気が硬直していく。



「資金を出している以上、当然の権利だと思っているが?」



彼の言葉には冗談めいた響きがあったが、それが許される場ではないと誰もが理解していた。

《魔力を扱う者たち》《不死を追求する者たち》――

そのどちらの代表者も、一瞬視線を交わし、わずかにうなずいた。


抵抗する術はない。

いまや彼らの熱狂すら、この男の前では“供物”にすぎなかった。



「……これが、噂の娘か」



男の目が、実験台の上のベルへと注がれる。

その瞳には好奇心ではなく、所有欲と冷ややかな優越が滲んでいた。

まるで、自分の財産が呼吸しているのを確かめるかのように。



「なるほど……生きているのか、これは」



男は歩を進め、無遠慮に手を伸ばした。

その指先がベルの頬に触れた瞬間、部屋の空気がわずかに震えた。


冷たく乾いた皮膚が、少女の柔肌をゆっくりと撫でる。

指は頬から耳の下、そして首筋を這い、鎖骨の窪みで止まる。

まるで何かの構造物を確かめるかのように、慎重で、それでいて執拗な動きだった。



「……美しい造形だな」



男は囁くように言った。



「冷たいのに、柔らかい。まるで死体のようで、しかし……確かに、これは生きている」



口元に浮かぶ笑みは、称賛というには歪みすぎていた。

それは、崇拝と支配欲の混ざり合った、歪んだ悦びの表情。


周囲の研究者たちは、息を潜めるように沈黙していた。

誰一人、動こうとはしなかった。

だがその目には確かに怒りと嫌悪、そして焦燥が揺れていた。

だが、それらすべては口に出されることなく、ただ視線を交わすことでしか示せなかった。



「やめてください……そのような行為は、実験の結果に障ります!」



その沈黙を破ったのは、壁際に立っていた若い術者だった。

声は震えていたが、真っすぐだった。

彼の手は白くなるほど拳を握り締め、口元には小さな血の筋が滲んでいた。


しかし、男は振り返りもせず、くすりと笑った。



「封印が強すぎて、何の反応もない。まったく、つまらないね……」



指を離す瞬間、彼の眼差しにはほんのわずかな“苛立ち”が混じっていた。



「封印を緩めろ」



その言葉に、室内の空気が一瞬で凍りついた。

まるで見えない刃が喉元に突きつけられたように、誰もが息を呑み、動きを止めた。

誰かが椅子を引く音がした。

そのかすかな軋みにすら、全員が神経を尖らせていた。


この研究施設では、出資者の言葉は絶対ではない。

しかし、それに抗うにはあまりにも代償が大きすぎた。



「……それは、危険です。自我が戻りすぎれば、制御が難しくなります」



言葉を選びながら、別の研究者が震える声で訴えた。

彼の額には汗が滲み、握った拳には爪が食い込んでいた。


男は、その姿を見て微笑んだ。

その笑みは冷たく、血の通わぬものだった。



「危険か。だからこそ、見たいのだよ。

真に“彼女”という存在が、どのようなものかをな」



その目――暗く濁った双眸には、狂気の光が宿っていた。

理性の皮をかぶった欲望が、ついに外へと漏れ出す。

それは知への渇望などではない。ただの、喰らうような好奇心だ。



「封印を弱めろ。それが嫌なら、出資は打ち切る」



部屋の空気が、決定的に壊れた。

研究者たちの顔から、色が失われていく。


怒りではなかった。悲しみでもなかった。

浮かんだのは――敗北の色。そして、諦め。


一部の者は、拳を握りしめた。

一部の者は、目を伏せた。

そして誰一人、反論しなかった。



「……わかりました」



誰かが、静かにそう告げた。

それは命令ではなく、儀式の始まりだった。


音もなく、空間に術式の文様が浮かび上がる。

光の粒が宙に舞い、ベルの周囲に淡く輝きながら集まり始める。

それはどこか、祈りの光にも似ていた――

だがその祈りに、救いはなかった。




部屋の空気がひりつく。

結界がわずかに軋み、目に見えない不吉が場に滲む。



「……ぁ……」



それは、言葉にならない声だった。

風に消える吐息のような、けれども魔力を帯びた微細な振動。

耳で聞くというより、脊髄の奥でそれを感じるような、異様な響きだった。


数人の技術者がその声に反応した。

ある者は立ち尽くし、目を瞬かせながら、無意識に額に汗を浮かべる。

ある者は喉を鳴らして息を呑み、冷たい吐息を吐いた。

またある者は、見開いた瞳の奥で、得体の知れない畏怖に背筋を震わせた。


空気が揺れる。

それはまるで、眠っていた獣が目を覚まし、ゆっくりと呼吸を始めたかのようだった。



「……ほう」



場の空気を壊したのは、出資者の男だった。

陶酔したように吐息をもらし、恍惚とした笑みを浮かべながら、瞳を細める。


まるで希少な獲物を手に入れたばかりの猟師のように、手袋を外し、ゆっくりと白布の覆いを払い落とす。


その滑らかな肌には、無数の細かい傷とともに、薬液と魔力が染み込んだ封印の紋様が刻まれていた。

かすかに脈打つように光を帯びるその紋は、未だ彼女を縛る枷であり、同時に、その身に秘められた異質さを際立たせていた。


男の視線がその紋様をなぞるようにゆっくりと這い、目尻がさらに吊り上がる。

眼差しには冷たい興奮が宿り、口元には歪んだ笑みが浮かんだ



「見事な芸術品だ。……まるで“死”を刻んだかのような細工だな」



男は、封印の残滓が微かに輝くベルの肌を見下ろし、低く呟いた。

その声は、賛美と冷笑と所有欲が絡みついた、ねじれた感情の塊だった。


ベルの喉が、かすかに動いた。

ひとひらの吐息のような囁きが、唇から零れる。

それは意識の境界をさまよう夢の断片か、それとも苦痛に抗う無意識の反射か。


意味のある言葉ではなかったが、その響きは空間の魔力をわずかに震わせ、聴く者の心を撫で回すように残った。


男はその微かな反応に、目を細めてほくそ笑む。

そして――再び手を伸ばした。


頬に、首に、鎖骨に。

指先は肌の質感を確かめるように、ゆっくりと、無遠慮に這い回った。


そこには医術も検証も存在しない。あるのはただ、個人的な“触れたい”という欲望の発露だけだった。

触れながら、男はまるで上質な宝石の鑑定でもするかのような口調で言う。



「冷たいのに、柔らかい。……この曖昧さがたまらないな。

生と死の境を踏み越えながら、なおこうして触れられる。……いや、これはもう、手の届く異常だ」



その声に、誰かが小さく息を呑んだ。

だが誰も止められなかった。

それは、彼が出資者だからでもあるし――その欲望があまりにあけすけで、醜悪で、誰も“正気の顔で直視できなかった”からでもあった。


ベルのまぶたが、ほんの少しだけ震えた。

長い睫毛が揺れ、閉じられた瞳の奥に、意志の微光が滲みかけたようにも見えた。

その瞬間、空気がぴんと張り詰めた。


男はその揺らぎに気づかないふりをして、いや、気づいたうえでさらに指を這わせた。

喉元、胸元、肋骨の輪郭に至るまで――感情のない彫刻をなぞるように。


そして、ベルの唇がかすかに動いた。



「……や……」



それは空耳のような、だが確かに存在する音だった。

微かでも、そこには「拒絶」の意思が宿っていた。


室内の魔力がざわついた。

研究者たちは一様に顔をこわばらせる。

誰も声を上げない。ただ、黙って、知らないふりをして目を逸らした。



そして男の口元が、ゆっくりと、異様に歪んだ。



それは笑みの形をしていたが、どこか壊れていた。

欲望と支配、嗜虐と陶酔。

感情が混ざり合い、どれでもあってどれでもない。

醜悪な何かが、そこに露出していた。


瞳の奥に灯る光は、もはや理性の名残すらない。

ただ、本能と執着だけが脈打ち――何か別の生き物のようだった。



「……応えてくれたな」



囁きは、愛おしさすら滲ませていた。

柔らかく、優しい響き。

だがそれは、壊れた玩具を前にした狂人の語りかけだった。



「成果が出ないなら……この娘を一晩、私に貸せ。

私の手で、じっくりと“引き出して”やる……そのほうが、ずっと早いだろう?」



声には甘さすらあった。

だが、その甘さの奥底にあるものは――血と肉を舐める獣の熱。

その言葉に、室内の温度が数度下がったかのように感じられた。


技術者たちの背筋を、目に見えない氷が這った。

息を呑む音もなく、ただ沈黙だけが場を支配する。

誰もが、叫びたかった。

拒絶を、怒りを、恐怖を。



だが、誰ひとりとして、声を出せなかった。

口を開いた瞬間、何かが終わる。

その確信が喉を塞いでいた。



男は、返答を待つことすらしなかった。

すでに全てを手にした者のように、満足げに肩をすくめ、ゆっくりと背を向ける。



重たい足音が、静けさを削るように廊下を遠ざかっていく。

その音が完全に消えるまで、誰も、息を吸うことすらできなかった。



そして、その日を境に、研究は確かに変質した。

男が持ち込んだ歪んだ熱が、技術者たちの胸の奥に潜んでいた感情を暴いた。



研究室の空気は重く淀み、異様な熱気が渦巻いていた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ