3-56
窓のないこの部屋には、時間の流れを示すものがない。
ただ、封印施術の痕と、記録帳に刻まれた日付だけが、時間の痕跡を語っていた。
ベルの研究に携わる二つの派閥は、それぞれ異なる目的を掲げ、成果を競い合っていた。
派閥間の競争の陰で、静かに、そして確実に、あるふたつの兆候が現れ始めていた。
ひとつは、成果の乏しさ。
何度繰り返しても、抽出された魔力は変質を拒み、
不死の肉体に対する検証も、変化のない結論を繰り返すだけだった。
そして、もうひとつ。
それはベルという存在そのものへの、奇妙な執着だった。
実験の延長が常態となり、誰もが彼女の周囲に滞在しようとした。
検査を名目に、魔力の安定性を確かめるふりをしながら、ただ彼女を見ていた。
その奥にあるはずの何かを、探るように。
「……この反応、前回と微妙に違う気がするな。比べてみるか」
研究者の一人がそう言いながら、既に何度も確認済みの術式記録を広げた。
実験の延長は、いつしか執着の仮面を被った。
誰もが彼女の周囲に滞在したがり、検査という建前のもと、ただ彼女を見ていた。
別の者が言葉を重ねる。
「封印の痕が少し浅い。強度に差が出ている可能性がある。新しい施術を試してみても……」
ベルは反応を示さない。
目を伏せ、呼吸は一定。
だがその沈黙が、まるで応じているかのように錯覚させた。
最初に言い出したのは、誰だったかも思い出せない。
「……封印を、少しだけ弱めてみるのはどうだろう」
沈黙の中に、ほんのわずかなざわめきが走った。
それはやがて、静かな賛同に変わる。
誰も声を荒らげない。ただ、同意を示す眼差しだけが揃う。
「より生の反応が得られるはずだ」
「もし感情が現れれば、魔力の変質に影響する可能性もある」
そう言いながら、彼らの手は、すでに新しい術具へと伸びていた。
だがその中には、別の思惑もあった。
動くベルを見たい。
拒絶する彼女に、術式を施してみたい。
その「変化」が、未知を照らす光であると信じて。
そして同時に、それがどこか心を満たすという確信と共に。
封印の強度は、ほんのわずかに緩められた。
実験は変わらぬ手順の中に、密やかな期待を忍ばせて繰り返される。
変化の兆しを、誰もが密かに待っていた。
それを「正しさ」と信じる心に突き動かされながら。
変化は、意外なほど早く現れた。
封印に用いる紋様の数を減らせば、薬液の塗布もまた軽減される。
そうして、ついに――ベルは目を覚ました。
瞼がわずかに震え、ゆっくりと開かれる。
虚ろな視線が天井を彷徨い、何も映さないまま空を切る。
「……起きたぞ」
部屋の片隅、記録係の一人が呟いた声は、冷静を装いながらも震えていた。
その声に引き寄せられるように、研究者たちの視線がベルへと注がれる。
彼らは用心深かった。
ベルの意思は今も封じられている。
目を開ける、それだけの機能しか許されていない。計算された、完璧な封じ方。
しかし、“目を開けた”というだけの現象は、想像以上の効果を持った。
その瞳の奥に、自分だけが映るのではないか。
そんな妄執に取り憑かれた者たちが、ほとんど儀式のように、静かに、しかし我先にとベルの元へと歩を進める。
最初に前へ出たのは、《魔力を扱う者たち》。
彼らは言葉を選ぶようにして、しかしどこか恍惚とした声で囁く。
「……そのまま、動かなくていい。瞳はそのままで……見ていてくれれば、それでいい」
ベルは、何も応えない。
虚ろな瞳を天井へと向けたまま、ただ、呼吸だけが淡く続いている。
それだけの動きが、彼らには"肯定"に見えた。
複数の手が同時に動き出す。
彼女の肩へ、腕へ、腰へ――奇妙な素材で編まれた帯が、慎重に、しかし執拗に装着されていく。
金属のような冷たさと、革のような柔らかさを併せ持つ帯は、生き物のように身を這い、身体の要所に触れていく。
装置の表面に刻まれた封刻文字が、魔力の接触によって淡く発光を始める。
「……感じている、反応しているぞ……!」
装置を操作していた技術者が、震える声で呟く。
だがその目は、制御盤の数値ではなく――
ベルの白い肌に浮かぶ微かな震えや、唇の端から零れる息の温度を、夢見るように追っていた。
やがて、胸元を締め上げる帯がゆっくりと収縮を始める。
ぐっ、と押しつけられた圧に、ベルの身体が僅かに仰け反る。
小さな吐息が、まるで音楽の一節のように空気を震わせた。
「……魔力が……生きている……」
誰ともなく呟かれたその言葉に、部屋の空気がひとつ沈黙する。
それは歓喜か、畏れか。
だが確かなのは、彼らの目が、数字ではなく"反応"を見つめ始めたことだった。
ベルの存在は、既に「被験体」ではなかった。
触れ、感じ、観察されるための「現象」だった。
そしてそれを、誰一人疑問に思っていないという事実だけが、なお一層、静かに恐ろしかった。
彼らの瞳には、もはや研究でも成果でもない、原始的な欲望にも似た光が宿っていた。
そして次に《不死を追求する者たち》が、足音ひとつ立てずに歩み出た。
彼らの白衣は慎ましさを装っていたが、その瞳の奥には、乾ききった渇望が赤く灯っている。
「この状態ならば……循環の仕組みを、直接確かめられるはずだ」
実験台の傍らに設けられた台座には、幾本もの透明な管が用意されていた。
それぞれに繋がれたガラス筒の中には、淡い金色を帯びた溶液がゆるやかに揺れている。
それは血液と混ざり合うために調整された魔術的触媒――しかし今や、その目的は純粋な探求を超えていた。
冷たい器具がベルの腕へと滑り込む。
皮膚を貫く針の感触に、ベルの指がわずかに動いた。
ほんの一瞬の震え。それだけで、周囲の空気がざわめく。
「……反応だ。間違いない。これは、拒絶の兆しだ」
「いや、違う……これは、自律機能の再活性化かもしれない!内因的な……いや、魂の回帰か……?」
次々と飛び交う声は、理性の皮をかぶった歓喜だった。
記録係の筆は追いつかず、手元の紙を何度も取り落とす。
誰もそれを咎めない。視線は皆、ベルへ。
その顔の、動きの、その内奥の「変化」へと、釘付けだった。
彼女の額に汗が浮かぶ。喉がかすかに鳴り、眉が寄った。
そのわずかな「苦悶」が、見ていた者たちの胸を満たす。
――確かに、そこに“生”がある。
誰かが息を呑み、誰かが微笑み、誰かが手を震わせる。
それぞれの胸にある願いは異なる。
ある者は死を恐れ、ある者は神の座を求め、ある者はただ、ベルという存在に触れたいだけだった。
「次は、心臓近くの循環を……」
声を上げた者はすでに装置に手をかけていた。
理論の確認も、許可の言葉もない。
ただ、“もっと深くまで見たい”という欲だけが、彼らを動かしていた。
ベルの反応が、彼らの“目的”に成り代わっていく。
それを誰も咎めない。
なぜなら、全員が同じ狂気の中にいたからだ。