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微かな光だけが差し込む、静謐な空間。
その中心に、白布を掛けられた少女の身体が横たえられている。
肌は透けるほどに白く、目は虚ろ。
彼女の意識は遠く、すでに思考も行動も、自らの手からこぼれ落ちていた。
刻まれた紋と薬液の作用――それは、見えない鎖のように彼女の内面を縛りつけている。
今やベルは、「観測される存在」としてそこにある。
施術の前には、必ず浅く切り傷を入れる工程がある。
だが、刃が肌を裂いたその瞬間でさえ、ベルは一切の反応を見せなかった。
痛みは届いているはずなのに、感情の波紋ひとつ浮かばない。
それは、意識が深く沈められている証でもあり、術の効果を示す確かな徴でもあった。
周囲では、研究者たちが黙々と動き続けていた。
目的は二つ。
ひとつは、膨大な魔力をどうにかして取り出し、街の根幹に流し込む方法を探ること。
もうひとつは、不死の理を解き明かし、制御する術を得ること。
どちらも、単なる技術探究ではなく、互いの成果と手法を競い合う争いの渦中にあった。
観測、記録、施術、検証。
それらが果てしなく繰り返される。
そして、自由を奪うための薬液の紋は、定期的に施される。
筆先に黒い液体を含ませ、肌に染み込ませるには傷が必要だ。
その度に切られる皮膚。それでもベルは、一言も発さず、身じろぎ一つしなかった。
それが、彼女を"素材"として扱う者たちにとって、どれほど都合がよいか。
その沈黙が、いかに彼らを昂らせるか。
狂気は静かに、だが確実に、研究の名のもとに膨らんでいった。
「魔力の脈流は安定している。全身から均一に供給されている証拠だ。やはり"動力化"こそが正しい応用だ」
低い声が静寂を破る。
術者の一人が、繊細な測定具を覗き込みながらそう呟いた。
その手には細い羽根筆。指先は墨に染まり、爪の下まで黒く染み込んでいる。
「ふん、愚かだな。貴様の望みはこの街の灯火か? 我々が手にしているのは、不死そのものだ。
肉体の恒常性、細胞再生の周期、神経伝達の完全な閉回路が“解明”さえできれば、死の否定が可能になるんだぞ」
別の術者が吐き捨てるように言う。
厚手の手袋の中で、指先がそわそわと落ち着かない。
彼の視線はベルの胸部付近を走る神経の束を追っていた。
「ならば貴様らがやるべきは墓荒らしだ。死体をいじくっていればいい。
我々は、生きたまま供給される力を、都市の根幹へと転用する手法 を確立したのだ」
「その“生きたまま”に執着するから、真の再現性を見誤るんだ。
この再生の原理こそが、我々の文明を一段階引き上げる。
たかが街灯が煌めくことと、神の座に手を伸ばすこと、比べるまでもない」
「神など笑わせるな。貴様らは"肉体"に囚われすぎている。
力は、流れればそれでいい。制御できるなら、人格も意識も必要ない。
そのために我々がやっている研究こそが、最大の鍵なのだ」
淡々と、しかしどこか狂信的に言葉を応酬する彼ら。
その日の封印の施術が終わると、部屋の一角から一人の研究者が立ち上がった。
冷えた空気の中に、彼の声が乾いた響きで割り込む。
「我々の番だ。触れるな」
淡々と、だが確かな熱を帯びていた。
彼らの目的は、不死なる力を街の根幹に組み込み、永続する魔力供給源として利用すること。
要は、ベルの身体から魔力を抽出し、それを制御・応用しようというものだった。
だが現実は容易ではない。
ベルの魔力は、既知のいかなる性質とも一致しなかった。
抽出は可能だ。
だが、それを街の魔力機構へ接続するには、膨大な変質処理と媒介儀式を要する。
精緻な理論と繊細な術式。試行錯誤を繰り返しても、成果はわずかだった。
それでも、彼らはやめなかった。
ベルの肌に印が刻まれる。
魔力の流出を誘導するための構文。
詠唱の補助なしには成立しない、微細で高度な術式。
数人が詠唱を分担し、別の一人が装置を調整する。
魔力の流れを視覚化し、少しでも既存の機構に適合させる術を探る。
魔力は、確かに流れ出ていた。
異質で、重く、冷たいそれは、測定する術者の指先に痺れるような反応をもたらす。
だが依然、制御不能。
変換装置は反応を示すが、安定せず。
抽出された魔力は、大半が虚空へと消える。
誰も声を荒げない。
落胆も、焦燥もない。
ただ淡々と、術式を微調整し、印の角度を変え、構成文を入れ替え、実験記録を更新する。
そのすべてが、次の一手の材料となる。
彼らは知っている。
いつかこの力が、“都市の心臓”に変わる可能性を。
淡々と、執拗に、実験は続けられる。
また別の日。
不死の力を探る一派の者たちが、研究室の奥深くに集った。
光を遮るように重く垂れ下がるカーテン。空気はどこか濁り、薬品と鉄の匂いが静かに満ちている。無機質な石の床に、ベルの身体は静かに横たえられていた。
今日もまた、刻みが始まる。
刃が肌を割く音は微かで、まるで衣のほころびを縫い直すように正確だ。
白磁のような皮膚が裂け、そこに濃紺の薬液が染みこむ。反応はない。まるで感覚すら失われたかのように、ベルはまばたきひとつしなかった。
研究者たちは言葉を交わさない。
代わりに、息をひそめて観察する。
筋繊維が再構成される瞬間、皮膚がゆっくりと閉じていく過程。
まさに“死の否定”を目の当たりにしているのだ。
それは畏れと同時に、抗えぬ魅惑だった。
「この現象が解明できれば、老いも、病も……全てが過去の遺物になる」
一人が低く呟く。
その声に応じるように、別の者が記録を走らせるペンの動きを止めぬまま言った。
「魂はどうなる? 肉体だけが再生し続けても、記憶が壊れれば別人になる。だが……この少女は、記憶も人格も、同一性を保っているように見える」
「ならば魂もまた、不死なのか……」
声は熱を帯び、表情は冷たい。
感情を抑えようとしているのに、抑えきれていない。
理解への渇望。未知への欲望。不死という存在を目前にした、理性の限界。
誰もが、その中心にある少女を「研究対象」として見ていた。
彼女の名を呼ぶ者は、誰一人いない。
封刻が終わると、再び別の観察が始まる。
皮膚の再生速度、細胞の周期、血液の性質。
検体は冷たく、微動だにしないまま、それらすべてを無言で受け入れていた。
その静寂の中、器具の音と記録紙の擦れる音だけが響く。
狂気は叫ばない。
それは、正確で冷ややかな手つきに宿っていた。
不死の力に魅せられた者たちは、今日もまた、淡々と。
しかし確実に、境界を踏み越えていく。