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無機質な光が差す、まるで実験室のような空間。
床も壁も白く滑らかで、余計な装飾の一切ないその部屋は、ただ“観察”と“記録”のためだけに存在しているようだった。
中央の拘束台に、ベルの身体が静かに横たえられていた。
魔力の流れを抑えるため、何重にも補助術式が張り巡らされ、術者たちの詠唱を補助するための魔導増幅装置が、壁面で脈動していた。
その音が、彼女の声を遮り、問いかけを虚空に溶かす。
幾人もの術者が、交代で魔術を維持しながら彼女を封じ込めていた。
その執念と段取りの無駄のなさに、ベルはどこか感心に似た諦めを覚えていた。
やがて、一人の技術者が、黒く濁った液体の入ったガラス瓶を掲げる。
瓶の中で、液体はとろりと揺れ、まるで意志を持つかのように光を反射する。
「……試したいものがある」
瓶の中の液体は、とある魔物から抽出されたものだった。
人間の精神に作用し、思考を鈍らせ、意識の支配を容易にする。
かつて幾人もの術者が、その“可能性”に身を焼いた、危険な精製品だった。
液体はまず口から与えられた。
匙で少量を含ませ、飲み込ませる。
効果はない。
次に注射器。
無言のまま、腕に液体を注入。
肉体は何も示さず、静かに沈黙を保った。
技術者たちは驚かなかった。
この程度で、《不死の魔女》の精神を侵せるなどとは、誰一人として信じてはいない。
誰もが知っていた。彼女の本質は、もっと深く、もっと冷たく、もっと遠い。
だがそれでも、試す価値はある。
本当の試みは、ここからだった。
一人の技術者が、静かに筆を手に取る。
細く、長く、柔らかな獣毛の筆。
その毛先はまるで生きているかのように揺れ、わずかに光を反射していた。
筆は、黒く濁った液体の瓶の中へと沈められる。
とろみを帯びた薬液が、毛の一本一本にまで染み込み、筆全体が艶やかに濡れる。
まるで血を吸ったかのような重さと色合い。
ベルの肌に、すでに浅く刻まれた小さな切り傷がある。
それは侵入のためだけに刻まれた、儀式の扉。
術者は筆を構え、傷口へとそっと触れさせる。
その動きは丁寧で、あくまで慎重。
舐め取るように、筆が一筆、なぞる。
黒い線が肌の上に滲む。
粘性のある液体が、傷口の縁に染み込み――
次の瞬間、切り裂かれた皮膚が、まるで逆再生のように閉じていく。
ベルの不死の力。
死を奪われた、彼女の肉体はあらゆる損傷を修復していく。
だが今回は、その癒えの瞬間に異変がある。
修復と同時に、薬液が肌の下へと吸い込まれていく。
液体が、ベルの体内に取り込まれていくのが、術者にははっきりと分かった。
ベルの瞳が、かすかに揺れる。
痛みではない。だが、不快だった。
皮膚が異物を吸収していく感覚に、ベルの眉がかすかに動く。
わずかな違和感――いや、確信が、術者の目に宿る。
「……入った」
誰ともなく、呟きが漏れる。
静まり返った空間に、その言葉は刃のように鋭く響いた。
他の術者たちも身を乗り出す。
それまで無表情だった彼らの顔に、微かに高揚の色が差した。
筆が再び、黒い液体に沈められる。その動きにはもはや躊躇はない。
一人が、ベルの服の留め具にそっと手を伸ばすと、もう一人が無言で補助陣に魔力を送り込む。
四肢を縫い止めるように、拘束の術式が強く明滅した。
ベルの身体から、力が抜け始めている。
その変化はわずかだが、確かだった。
目の焦点が定まらず、瞼は重く、微かな吐息さえ熱を失っていく。
ベルの意識はまだ完全には沈んでいない。
だが、まるで夢の底に引きずり込まれるような、遠ざかる感覚があった。声を発そうにも、舌が思うように動かない。
服の留め具が外される音が、やけに大きく響いた。
音もなく衣服が剥がされていく。
冷たい空気が肌に触れ、淡く起伏する白磁の身体が露わになる。
術者たちは、目の奥に熱を宿しながら、その肌に筆をあてた。
今度は、肩から鎖骨、胸元へとゆっくりと滑っていく。
薬が染み込んだ筆先が、癒えかける傷をなぞるたび、黒い線が皮膚の下へと吸い込まれていく。
「癒える……すぐに」
術者の一人が、筆先の下で再生していく皮膚を見つめて呟いた。
その再生は、生の継続ではなく、死の喪失という異端の理だった。
筋繊維が束ね直され、毛細血管が繋がり、表皮が滲み出るように再構成される様は、生ではなく"死を否定する力"そのものだった。
そしてその過程で、黒い液体が内側に取り込まれていく。
「不死の再生に“混ぜ込める”……」
声は熱を帯びていた。
記録する筆を走らせる者。
装置を細かく調整する者。
小さな音だけが、無機質な空間の中で淡々と繰り返された。
その間にも、筆は止まらない。
今度は、腹部、太もも、足首へ。
筆先は円弧を描き、繋がり、絡まりながら、次第に意味を持ち始める。
無数の小さな線が、やがて一つの陣を形作っていく。
ベルの呼吸は浅く、意識が揺らいでいるのが彼らには一目で分かった。
それでも、かすかな拒絶の力が残っている。
だがそれは、先ほどよりもはるかに弱々しかった。
そして、その拒絶が薄れるのと反比例するように、
実験室の冷たかった空間に、じっとりとした熱気が広がり始める。
技術者たちの眼差しが、無感情なまま、しかしどこか異様な高揚を帯びている。
ベルを捕らえていた詠唱の声は止まっていた。必要なくなったのだ。
冷たい空間に、異常な熱気がゆっくりと立ち込めていく。
ベルの瞳は開かれていた。
けれど、そこに宿るはずの光は失われていた。
瞳孔はわずかに揺れ、焦点を結ばないまま宙を漂っている。
肌に描かれた魔法陣と、体内に取り込まれた黒い薬液。
その複合的な作用が、彼女の意思を封じていた。
不死の肉体はなお再生を続けているが、思考の火は、静かに凍てついていた。
もはや、心も体も、ベル自身のものではない。
そしてベルは音もなく目を閉じる。
沈黙の中、一人の技術者がゆっくりと立ち上がった。
老いた額には汗がにじみ、白衣の袖口が筆と薬液で黒ずんでいる。
「……捕らえたぞ」
沈黙を破るその言葉に、周囲の術者たちの表情がぴくりと動いた。
目の奥に、抑えきれない興奮の火が灯る。
「《不死の魔女》は、我らの術式に従っている。もう抵抗はない。
このまま街の魔力機構へと取り込みさえすれば……」
男は手を広げ、虚空を抱くように語った。
「永遠の魔力循環装置が完成する。街に、尽きることなき魔力の源を──」
技術者たちの歓びは、狂気にも似ていた。
これまで彼らを「便利屋」と見下してきた街の貴族たち、司祭たち。
その全てを見返す機会が、今ここにあるのだと、誰もが確信していた。
研究者たちの目はどれも異様な光を宿していた。
もはや彼らにとって、目の前の存在は一人の少女などではなかった。
“理想”の具現。
幾百もの理論がぶつかり合い、幾千の計算式が閃きを孕んで踊る。
彼女の体内を流れる魔力が、ひとつの系として再定義されたとき、
未知なる知が、この世に解き放たれる――
歓喜でも、勝利でもない。
それは、ただひたすらに
知識への渇望に突き動かされた狂信の結実だった。