3-53
周囲の空気に、微かな変化があった。
通りに設置された柱灯が、いつの間にか新しい型に変わっている。
小さな装置が軋むような音を立て、誰かを見ているような気配を放っていた。
ベルはその不自然さに気づきながらも、表情を変えず、足を止めずに通り過ぎる。
市場のざわめきも、どこか落ち着かない。
人々の視線が交差し、空気がほんの少しだけ硬い。
技術者たちは相変わらず穏やかな顔で街に溶け込んでいるけれど、その手元で動く装置は、何かを探すように研ぎ澄まされていた。
老夫婦の店に戻ると、変わらぬ温かな空気が出迎えてくれる。
それでも、ベルの沈黙に、夫婦は何かを察したようだった。
しばらくして、客の足が途絶えた午後。
薄曇りの光が差し込む作業机の向こうで、老主人が静かに口を開いた。
「……何があったか、聞く気はないよ」
いつものように工具を磨きながら、目だけがベルを見ていた。
「けれど、出ていくときは……ちゃんと、さよならを言っておくれ。あんたの声で、聞かせてほしい」
その言葉に、ベルは何も言わず、小さく頷いた。
悲しい笑顔が、老主人の頬ににじんでいた。
休みをもらったその日は、街の外れにある市場へ出かけていた。
目立たぬようにフードを深くかぶり、買い物籠には日用品や、旅支度に必要な小物を少しずつ。
この街を出る準備は、心のどこかで、もう始めていた。
ベル「……どうやって伝えようか」
ふと、ため息がこぼれる。
老夫婦に別れを告げる言葉を、まだ見つけられずにいた。
静かに、そっと去るべきか。それとも。
その思考を裂いたのは、市場のざわめきの中に紛れた叫びだった。
「魔道具屋で爆発があったらしい! 火の手が……!」
立ち止まり、耳を疑う。
魔道具屋――老夫婦の店。
心臓が一拍、冷たく鳴る。
あの人たちに限って、そんな初歩的なミスをするとは思えない。
けれど、万が一があるのなら。
ベルは籠をその場に捨て、通りを駆け出した。
昼の街は人で溢れかえり、進むほどに足が止められる。
焦りが胸にこみ上げる中、裏道へ逸れた。ここなら、近道にはならなくとも、早く辿り着ける。
そう思った。
しかし、角を曲がったその瞬間。
そこは、いつも人影が少なく、ベルが好んで通る静かな道だった。
けれど今日、その静けさにはどこか異様な「整いすぎた無人さ」があった。
だが、胸の中に広がる不安が先に立ち、ベルは躊躇なく足を速めた。
やがて目に入ったのはあの店に続く道を遮るように立つ、黒い幕と魔法障壁。
遠くには煙も爆発も、炎も見えなかった。
ベルはようやく気づいた。
ベル「罠……?」
背後で微かに空気が震える。
瞬間、足元の魔法陣に気がつく。避ける間もなくそれは展開された。
見えない糸のような魔術が空間を編み上げ、ベルの逃げ場を封じる。
同時に、視界の外から響く詠唱。
幾重にも重なった術式が、ベルの周りの空気を重たくしていく。
ベルはすぐにそれを打ち消そうとする──が、わずかに遅かった。
ベル(……何か、おかしい)
精神干渉ではない。強制拘束でもない。
だが、幾重にも魔術を分散・同時展開することで、「魔力を封じる」「行動を制限する」「意識を奪わない」状態を保ちつつ、死神の揺り籠の発動条件だけをギリギリで避ける。
──“殺さない、無力化だけを目的とした術式”。
彼らは知っていた。
この少女を真正面から抑える術はない。
だからこそ、最も“触れられる瞬間”を狙った。
ベルは片膝をつき、息を詰める。
魔力は流れない。視界がほんのり暗い。
声も、力も、空気に溶けていくようだった。
そして気が付く、街にいくつも立てられた魔導塔。
いつもは闇を照らす明かりが、彼らの詠唱を反復し増強する。
ベル(……やられた)
背後から、術者たちが静かに近づいてくる。
その姿は「技術者」たち。
ベルは目を細めながら、ただ静かにその足音を聞いていた。
空間を封じる魔術の重圧に膝をついたベルの前に、数人の影が現れる。
ベルを捕らえる手際の良さ。
どこか既視感のあるそれに、わずかに眉をひそめた。
ベル「……蛇の法衣?」
答えたのは、先頭に立つ男。
冷ややかな声音で、どこか懐かしげに言う。
「……それは過去の名。我らは“蛇の法衣”より分かたれし者。
今の我らは、理に殉じ、この街の魔力機構へ魂を捧げた」
返す言葉を探す暇もなく、彼らの手がベルへと伸びる。
魔力の自由を奪われたその身体は、抵抗の術もなく、静かに捕らえられていった。
ベルは、まるで実験室のような空間へと連れて行かれた。
冷たい石造りの床と、天井を覆う魔導灯の明かり。
壁際には術式を刻まれた装置が並び、部屋の中央には拘束のための魔法陣が精緻に描かれている。
連行の間、数多の術者が交代で魔力制御の術式を維持していた。
その執念とも呼べる連携に、ベルは内心でわずかな感心と、もはや笑うしかないような諦念を抱く。
この空間ではさらに、詠唱を増幅・補助する魔導機構が稼働し、術者の集中を補っていた。
問いかけようとしたベルの声は、詠唱の洪水にかき消された。
意図的なものだと、ベルは気づいていた。
──会話すら許す気はない。
その時、ひときわ長い詠唱が一段落し、空間が一瞬だけ静まる。
その隙に、一人の技術者が前へと進み出た。
手にしているのは、黒く濁った液体の入ったガラス瓶。
「……試したいものがある」
男の声には、期待と執着、そして狂気が入り混じっていた。