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3-52

子どもは何も言わず、ただ恐怖に目を見開いたまま、足早にその場を離れた。

何も置き去りにしないまま。


ベルは動かずに、その背を見送った。


驚き、恐れ、混乱。

いつものことだった。

何度も繰り返された、同じ反応。


再び己の肩へと目を落とす。

深々と裂けた傷口は、すでにゆっくりと塞がりつつあった。痛みはまだ残っているが、出血は止まり、肉が再び繋がっていく。


ベルは静かに息を吐き、気配を消す。

生きている気配そのものを、空気に溶け込ませるようにして。


このまま誰にも知られず、帰るつもりだった。

だが、確かに、視線を感じた。


遠く。

建物の影。

動く気配はない。けれど、そこにいる。

気配を絶ってもなお、目を逸らさずにこちらを見ている者。



その男、「技術者」の一人──は動かなかった。

ただ、確かに見ていた。


淡いラベンダーの髪。

不自然なほどに静かな気配。

そして、即座に再生する肉体。


何度も繰り返し読まされてきた、記録と報告。

かつて所属していた組織の文書に記された、ひとりの少女。

技術と魔術の狭間で追われ、姿を消し続けた“不死の存在”。


彼の目に、ベルの姿は確かに重なっていた。



この街で「技術者」と呼ばれる者たちは、魔力と装置を融合させ、都市の機構を支える存在だった。

彼らの手によって、街は発展と秩序を保っていたが、その専門性と閉鎖性から、一般の人々とは一線を画されてもいた。


多くの技術者は、魔力の本質を求めて純粋に理を追い続ける者たちだった。

だが、その探求の果てに、常軌を逸した狂気を宿す者が現れることも、決して少なくはなかった。



その日を境に、街の片隅に、微かな違和が忍び寄る。



通い慣れた路地裏の空気に、わずかな湿り気のような視線の残滓が漂い、背後に気配がよぎる。

振り返っても、何もいない。

ただ風が通り過ぎるだけ。

けれど、風では拭えない感覚が肌にまとわりつく。


誰かが、ベルの存在に気づき、静かに目を向け始めている。

それは敵意でも、好奇でもない、もっと底の見えないもの。

名のない関心。


まだ、気のせいだと笑える程度だった。

だがそれは、音もなく開きかけた扉の軋み。

何かが、確かに動き始めていた。



老夫婦の家は、店から坂をひとつ上った住宅区の外れにあった。

木の香りが残る古い家で、陽が落ちると、窓の内側から漏れる暖かな灯りが道行く人の足を止めるような、そんな場所だった。


ベルは小さな戸棚に皿を並べる手伝いをしていた。

ぎこちないながらも、教わった通りひとつずつ丁寧に手を動かす。



「まあまあ、助かるわ。あなた、細かい仕事は得意なのねぇ」



優しく笑うその手には、鍋いっぱいの煮込み。

角切りの根菜と柔らかく煮込まれた肉が、香ばしい香りとともに湯気を立てていた。

テーブルには焼きたてのパンと、香草入りのスープ、ちいさな果実のジャムを添えたチーズが並ぶ。



「特別なものじゃないけど、昔からこればっかりなのよ」


と、照れたように笑った。


夕食はゆっくりと進んだ。

ベルがスプーンを置く音と、老夫婦の穏やかな声。

それだけの、静かな時間だった。



「最近、ちょっと変なことがあってな」



老主人がパンをちぎりながら、ぽつりと口にする。



「店に、見慣れん連中が来るようになってね。道具に用があるわけでもなく、棚を眺めては黙って帰っていく。不気味だよ、あれは」


「技術者たちでしょう」



奥さんが合いの手を入れる。



「妙に鋭い目をして、なんだか品定めでもしてるみたいだったわ」



ベルはスープに浮かんだ香草の影を見つめたまま、言葉を返さなかった。

笑顔の裏にかすかな不安が滲んでいたことに、きっと老夫婦も気づいていた。



夕食を終え、礼を言って店へ戻る頃には夜の帳がすっかり降りていた。

だが、魔導都市に「夜の静けさ」はない。

街の至るところに建てられた魔導柱が、昼のような明るさで道を照らし、人々は宵の時間を楽しむように行き交っていた。


魔導灯の明かりに浮かぶ笑い声。

談笑する職人たち、遅くまで開いている屋台の喧噪。

ベルはフードを深く被り、その光の中を静かに歩く。



視線を感じた。



ふと足を止めたその瞬間、地の底からじわりと這い上がるような気配が、足元にまとわりついてくる。


背後から、すれ違いざまに、あるいは視線の端に。

遠巻きに、じっと見つめる気配があった。

それは笑顔の仮面の裏に潜むもの。無邪気な好奇心、探るような興味。

あるいは、確信に近い疑念。


胸の奥を、冷たい水が一筋、音もなく流れていく。



ベル(……ただの気のせい。そう思っていればいい)



だがベルは気づいていた。

感情を隠しきれない幼い視線が、そこに期待と執着を含ませていたことに。


彼らが見ているのは、「少女」ではない。

「何かを知っている存在」、あるいは「何かを持っているもの」。



ベルはそっと息を吐き、歩を速める。

揺れる街灯の明かりの中へ、気配を薄めるように身を溶かしていく。

深くかぶったフードの奥で、その瞳だけが、静かに細められていた。

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