3-51
かつて魔導都市と呼ばれたその街は、百年前のその日、眩いほどの光に包まれていた。
街の中心を貫く広い通りには、朝から晩まで絶えることなく人が行き交っている。通り沿いには魔導器具の露店が並び、浮遊石や魔力仕掛けの自動筆記具、発熱装置付きの衣類まで、多種多様な品が並んでいた。
淡い光を放つ魔導柱が至るところに立ち、塔の先端からは光の筋が空へと昇っている。昼でも夜でも、街は決して暗くならないらしい。
ベル(こんなに、人がいるなんて)
通りを行き交う群衆に押されないよう、ベルは一歩下がり、路地の入り口に身を寄せた。
慣れない喧騒に、自然と肩がこわばる。
頭から深くかぶったフードの奥には、淡く光を含むような長い髪が隠されている。不吉の兆しとして忌まれてきたその色が、見知らぬ街で注目を集めるのは避けたかった。
気づかれぬように、目立たぬように。
この街では、ただの一人として、息を潜めていたい。
ベル(しばらく……この街で、身を隠せればいいけど)
ベルは通りの先、宿屋や店舗が並ぶ一角へと目を向けた。
働き口を見つけて、住み込みで暮らせる場所さえあれば、この喧騒のなかに紛れて、ほんの少しだけでも静かな時間を得られるかもしれない。
古びた扉にぶら下がった小さな鈴の音が、カラン、と澄んだ音を立てて店内に響いた。
埃の匂いに混ざって、どこか懐かしい金属と薬草の香りが鼻先をかすめる。
そこは古物と修理を扱う魔道具屋だった。
棚には時代の異なる道具や欠けた魔具の部品が雑然と並び、奥の作業台では何かを磨く音がかすかに聞こえていた。
老夫婦は、声を潜めがちなベルにも驚かず、むしろ柔らかく迎え入れてくれた。
ベルはその名も看板も思い出せない。けれど、その店の空気と、夫婦の静かな優しさだけは、今も心に残っている。
老夫婦の厚意で、ベルは店の二階にある空き部屋をあてがわれることになった。
床はきしみ、窓は古くて風を通したけれど、寝台と机があり、小さな暖炉もついていた。何より、静かだった。
老夫婦は別の場所に住んでいて、店には朝から昼過ぎまでの間しか姿を見せなかった。
そのため、夜は店全体がベルひとりのものとなった。
明かりを落とせば、魔導柱の光が街をうっすら照らし、窓の隙間から淡く差し込んできた。
仕事は、思いのほかベルに合っていた。
壊れた魔道具の欠片を分別し、棚の在庫を整え、客が持ち込んだ古い品を帳面に記録する。単純な作業の繰り返しではあったが、物の一つひとつにかすかな魔力の痕跡や、かつて使われた形跡が残っていて、それを読み解くような作業は嫌いではなかった。
訪れる客は常連が多く、みな老夫婦と旧知のようなやり取りを交わしていく。
道具の扱い方や言葉の節々に、その人なりの丁寧さや誠実さがにじんでいた。
老夫婦もまた、ベルの働きを過不足なく受け入れ、必要以上の干渉はしてこなかった。
この街に来てから、ようやく肩の力を抜けるようになった気がした。
誰かに追われているわけではないのに、いつも背後を気にしていた心が、少しずつ静まっていくのを感じていた。
しばらくの間、穏やかな日々が続いた。
ベルにとっては、それがどれほど短くても十分だった。
老夫婦は多くを語らず、詮索もしなかった。
それでも、何かを察していたのかもしれない。
ベルのことを、まるで年の離れた娘や孫のように自然に扱った。
彼らが自分よりもはるかに短い時間しか生きられないことを思えば、その振る舞いはどこか胸に刺さった。
だからこそ、なおさら、居心地がよかった。
けれど、そんな穏やかな日々にも、綻びは忍び寄る。
その日、ベルは工房からの頼まれ物を届けた帰り道、裏通りを歩いていた。
裏通りには人気がなかった。ひび割れた石畳と、崩れかけた壁。風がすり抜ける音だけが遠くから聞こえる。
ふと、乾いた音が耳に触れた。
崩れかけた倉庫の縁の屋根の上で、積まれていた木箱がひとつ、重みに耐えかねて傾いている。
時が止まったような瞬間、木箱は空中に舞い上がるようにして落下を始めた。
その下には、小さな子どもがいた。
誰も気づいていない。
逃げるには遅すぎる。
ベルはためらいなく駆けた。
小さな身体を覆うように飛び込み、そのまま硬い石畳に背中を打ちつけた。
鋭い痛みが背中を突き抜け、肩口に熱い感覚が広がる。
木箱が砕ける音が、遠くで鳴ったように聞こえた。
痛みに意識が霞む中、ゆっくりと立ち上がる。
肩から流れる血に、子どもが怯えた目を向けていた。
その目が、ベルの頭を見上げてさらに強く揺れる。
風が、ベルの髪をさらった。
頭から深く被っていたフードが落ち、陽に透ける淡いラベンダーの髪が露わになる。
まるで光を吸い込むような、その色。