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3-50

朝の空気は、夜の静寂の余韻をまだ少しだけ残していた。

呪術士の家だということを忘れるほどに、その客間は清潔で整っている。

昨夜と変わらぬ白い石の壁には、古い呪紋が淡く刻まれていたが、今はそれがどこか穏やかに見えた。

天井近くに吊された小さな水晶の灯具が、仄かな光を揺らしている。

まるで夜明けの光がまだ眠っているかのように、柔らかく、冷たくない。


壁際には古い本が並ぶ棚と、使い込まれた木製のキャビネット。

空気は乾いているのに、かすかに甘い香りが漂っていた。魔香草の残り香だろうか。


テーブルを囲むようにして、ベル、ノクス、ナヴィ、そしてマルベラが腰を下ろしていた。

無言が、心地よい沈黙として場に漂っている。


テーブルの上には、朝食が整えられていた。

焼きたての黒パンは香ばしい匂いを漂わせ、表面には薄くバターが塗られている。

温かなスープの中には、細かく刻んだ根菜と豆類が煮込まれ、香草の香りが湯気とともに立ちのぼっていた。

飾り気のない朝食だが、それだけに優しく、心を落ち着かせる温かさがある。


トーノが、静かに音を立てないよう気を遣いながら、紅茶の入ったカップをマルベラの前に置いた。

中にはたっぷりの蜂蜜。彼女が好む分量を知っているのだろう。



マルベラ「……気が利くね、トーノ」



マルベラの声は低く、ざらついた音を帯びていた。まるで木の根が石をこすって進むような、長い年月を感じさせる声音。

だがその眼差しには、疲れた旅人が暖炉の火に向けて見せるような、ひそやかな感謝の光が宿っていたその声は、低く澄んでいた。

重みのある言葉は空気を震わせるようで、皆の手が一瞬止まる。


彼女はベルに目を向ける。魔晶石の眼が静かにきらめいた。



マルベラ「……この呪いの解呪には、時間と手間がかかる」



そう告げると、マルベラはゆっくりと視線を移した。

ノクスの方へと。



マルベラ「錬金術師。おまえには、術式の補助を頼む。魔法陣の刻印、古式の符写も使う。そちらの知識、借りさせてもらうよ」


ノクス「わかった。必要な図式はあるのか?」


マルベラ「渡すよ。あとで書庫へ来な。手間のかかる作業になる」



次に、マルベラはナヴィをじっと見つめた。



マルベラ「……竜人」



それは名前ではなく、存在そのものを指し示すような、重く低い声だった。

ナヴィは顔色ひとつ変えず、静かにスプーンを置いた。



ナヴィ「なんだ、俺の血でも必要ってわけか?」


マルベラ「どうだろうね。竜人の血は、呪いを溶かす触媒に向いているって話だよ……必要なその時は、お願いするさ」


ナヴィ「冗談のつもりだったんだけどな」



マルベラはニヤリと笑い、ナヴィは肩をすくめてため息をつきながら、皮肉めいた笑みを返した。



マルベラ「あんたとトーノには、ひとつ頼みがある」



マルベラはそう告げると、息をついてトーノの方へと顔を向ける。



マルベラ「トーノ。あの店の爺さんに、この紙を渡してくれ。深い棚の奥にあるはずだ。少しばかり……癖のある代物でね。貴重な素材だ。道中、気を抜くな」



わずかに頷いたナヴィの目が、わずかに鋭くなる。トーノは無言で立ち上がり、すでに出発の支度にかかっていた。



そのやり取りを黙って聞いていたベルが、口を開いた。



ベル「わたしにも……なにか手伝えること、ない?」



その声には、いつもの静かな響きと、ほんのわずかな焦りが混じっていた。

だがマルベラはすぐには答えず、しばしベルの顔を見つめていた。


やがて、彼女はゆっくりと口を開く。



マルベラ「おまえに今必要なのは……心と体を、静かに整えることだよ。今は、それがいちばん難しい」



そして、珍しく笑みを浮かべた。

老いた魔女のその微笑みは、威厳の奥に潜む、深く静かな慈しみを思わせた。

マルベラの声に、部屋の空気がほんの一瞬、ふっと緩んだ。


その静けさの中で、朝の光は変わらず揺らぎ、どこかで時を告げる魔石が淡く鳴った。

日常とは少し違う、それでも確かな“始まり”の音だった。




マルベラの言葉に背を押されるようにして、ベルは昨夜眠った部屋へと戻った。

部屋は変わらず、整っている。重たくもない沈黙と、乾いた空気の中に、ほんの微かに残る甘い香り。

香炉に焚かれていた魔香草の残り香がまだ漂っていた。


扉が静かに閉まり、儀式に向かう足音が遠ざかっていく。

外の世界が一枚の壁の向こうへと沈んでいったように、音が消えていった。


ひとり残された空間は静かすぎて、かえって落ち着かない。

手持ち無沙汰のまま、慎重に包みをほどくように、ベルは小さな布袋を手に取った。

淡いピンク色の刺繍が、やわらかい指先に触れる。

ミィナが旅立ちの朝にそっと手渡してくれたものだ。


ミィナ「疲れた時に嗅ぐと、少し心が軽くなるよ」


そう言って笑った顔を思い出しながら、ベルは袋に鼻先を近づけた。

優しい香りが、胸の奥にふわりと広がる。ラベンダーに似た花の香り。けれどそれよりも少し湿って、懐かしい雨上がりの匂いがした。


ベルはそのままベッドの上に体を倒す。

柔らかく沈んでいく感触。

重さをゆだねるようにして横になると、長い淡紫の髪が、枕元に散る花びらのように広がった。



それは、何もできない時間だった。



誰かのために動きたいと思っても、自分にできることがない。

それがほんの少し、胸の中をきゅっと締めつける。


目を閉じると、香りはそっと過去へと橋をかける。

ミィナの明るい声、隠れ家で過ごした短い穏やかな時間。

それはベルの中に静かに積もっていた、数少ない「優しい思い出」のひとつだった。



そして、その静けさの向こうで──

遠い街角、夜の青白い灯り、古びた塔の影が、ゆっくりと心に浮かび上がってくる。

忘れようとしていたはずの記憶が、気配を忍ばせながら、そっと顔を覗かせた。


ベルにとっては偶然に、気まぐれに立ち寄っただけのこと。

それを運命だの必然だのと感じ、何かが起こるのはいつも向こうからだった。


その記憶は、静けさに紛れて、ゆっくりと滲み出してきた。

穏やかな香りの奥に、微かに混じる何か、決して癒えない痛みの気配。

思い出そうとしたわけじゃない。ただ、何かが引き寄せられるようにして、心の底から浮かび上がってくる。


ベルの意識は、知らず知らずのうちに、あの頃の街の記憶を辿っていく。


かつて魔導の灯火が空を染め、人と知と魔が誇り高く共存していた都市。

だがそれはもう、記憶の中でしか輝かない。


人の欲と狂気と、破滅の兆し。

そして、そこに自分が関わってしまったこと。


その街を訪れた日々は、偶然だった。だが、その偶然がひとつの終わりを連れてきた。

思い出したくなかったはずの記憶が、優しさの仮面を剥がして、静かに姿を現しはじめる。






ブクマ、評価ありがとうございます。

次の話から過去編になります。


※誤字訂正しました。

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