1-13
夜の帳が静かに降りた頃、街の空気がにわかに緊張を孕んだ。
予定では日が沈む前にこの街を離れるはずだった。
旅人が多く出入りするこの街では、闇に紛れるよりも、人の波に紛れる方が敵は手を出しづらいと考えていた。
ベルは小さく息を吐き、その場に留まっている。
ベル(……多すぎる)
追手の数が予想よりも多かった。
一人を撒いても、すぐに別の視線が群衆の中からこちらを探ってくる。
その気配を感じ取るたびに、ベルは慎重に進路を変え続けた。
《黒き観測者》と思しき気配の動きは、常にベルの背を捉え続けている。
ベル(これほどの人数が、すでに街に潜んでいたなんて……)
思い返すのは、エラヴィアの言葉。
彼女は、魔力の流れや精霊の囁きから、観測者たちの動きをいち早く察知していたのだ。
今、その数はさらに増している。
あの騒動によって、ベルの存在に確信を得たのだろう。
街の出入り口も、すでに監視下にあった。
門番のうち数人は、間違いなく“あちら側”――観測者と通じる者たちに違いなかった。
ベル(無益な戦いは避けたい……エラヴィアの愛するこの街を、奴らのために傷つけたくない)
その思いが、ベルの足を静かに動かす。
追われながらも戦いを避け、身を隠すようにして、街中をさまよう。
魔法ギルドの拠点としても知られるこの街は、古くから旅人の中継地として栄えてきた。
石造りの建物が立ち並び、路地は複雑に絡み合い、まるで意志を持つように入り込んだ者を惑わせる。
迷路のような路地に身を沈めながら、ベルはただ、気配を断ち、気配を追い、そして気配に追われる。
やがて、ふと足が止まった。
見上げた先。
そこは、魔術ギルドの塔。
《黒き観測者》の術により、疲弊したエラヴィアが眠る場所だった。
ベル(……戻ってきてしまった)
偶然か、それとも無意識の導きか。
薄明かりに照らされたその塔は、まるで静かにベルを待っていたかのように、夜の中にそびえていた。
だが、待ち受けていたのはエラヴィアではなく、敵だった。
「見つけた!やはり戻ってきたな!」
もう声を潜める気などないのだろう。
怒声が響いたその瞬間、魔術ギルドの塔の外壁が爆音とともに震えた。
破砕の衝撃が石造りの路面を割り、静寂だった夜の街に騒乱が広がっていく。
それを合図に、数名の術師が周囲に姿を現す。
黒衣の“僧”たち――表向きは聖職者を装っていたが、その手に紡がれるのは戦闘用の魔法。
それも、聖職者であれば本来禁じられるはずの、抑圧と破壊に特化したものであった。
呪文の詠唱が重なり、空気が軋む。
ベルの周囲を包囲するように、結界と破壊の気配が収束していく。
ベル「……ここでは、まずい」
街を巻き込むには、あまりにも被害が大きすぎる。
無益な犠牲を避けるには、応戦ではなく“消失”が最善。
ベルは息を整えると、一気に爆煙の中へと駆け出した。
陽炎のように輪郭をぼやけさせ、魔力の流れを切り離す。
それと同時に、幾筋もの“幻影”が街中に散っていく。
観測者の追跡術式を欺くため、意図的に複数の魔力の影を走らせたのだ。
その影は夜の闇の中で淡い紫の光を放ち、屋根を駆け、路地を抜け、そして街門へ向かった。
魔力の爆発により上がった煙と歪んだ空気の中、
夜の闇に淡く揺れる紫の光は、観測者たちの目には、まさしく“ベル”にしか見えなかった。
彼らは、まるで獣の群れのように散り、それぞれの“ベルの影”を追い始めた。
そして、真のベルはその騒乱に紛れ、自身の気配を魔力で奪うことで、夜の闇に紛れて静かに歩いていた。
「ここなら……」
古びた墓地の礼拝堂の地下、かつて神官が用いた隠し部屋へと身を潜めた。
壁一面には古の禁呪が刻まれ、今では忘れられた空間。誰の記録にも残されていない。
この場所を知ったのははるか昔、この街に魔法ギルドの塔ができたばかりで、ベルがそこへ滞在していた頃。
ベルは乱れた呼吸を整えると、自身の気配が未だ死神の魔力により隠れていることを確認する。
ベル(しばらく、ここでやり過ごそう)
だが、長くは持たない。観測者たちがどこまで執拗に追ってくるかは分からない。
そして、ベルを狙う別の追っ手のことも気にかかる。
エラヴィアが語っていた《蛇の法衣》も動いているという報せ。
意識して探ると彼ら、《蛇の法衣》の気配もまた、街のどこかで蠢いていた。
《蛇の法衣》とベルの因縁は深く、彼が纏う独特な視線を、彼女は肌で感じていた。
彼らはベルの正体を、魔術的手段では探知できないことを知っている。
だからこそ、観測者たちの動きを利用しているのだ。
混乱が広がれば、ベルが再び魔力を使う“反応”を引き出せると。
魔力の消耗――それこそが、彼らにとって接触の好機となる。
ベルは今、この街で、二重に狙われているのだった。
夜の帳が静かに降りた頃、街の空気がにわかに緊張を孕んだ。
予定では日が沈む前にこの街を離れるはずだった。
旅人が多く出入りするこの街では、闇に紛れるよりも、人の波に紛れる方が敵は手を出しづらいと考えていた。
ベルは小さく息を吐き、その場に留まっている。
ベル(……多すぎる)
追手の数が予想よりも多かった。
一人を撒いても、すぐに別の視線が群衆の中からこちらを探ってくる。
その気配を感じ取るたびに、ベルは慎重に進路を変え続けた。
《黒き観測者》と思しき気配の動きは、常にベルの背を捉え続けている。
ベル(これほどの人数が、すでに街に潜んでいたなんて……)
思い返すのは、エラヴィアの言葉。
彼女は、魔力の流れや精霊の囁きから、観測者たちの動きをいち早く察知していたのだ。
今、その数はさらに増している。
あの騒動によって、ベルの存在に確信を得たのだろう。
街の出入り口も、すでに監視下にあった。
門番のうち数人は、間違いなく“あちら側”――観測者と通じる者たちに違いなかった。
ベル(無益な戦いは避けたい……エラヴィアの愛するこの街を、奴らのために傷つけたくない)
その思いが、ベルの足を静かに動かす。
追われながらも戦いを避け、身を隠すようにして、街中をさまよう。
魔法ギルドの拠点としても知られるこの街は、古くから旅人の中継地として栄えてきた。
石造りの建物が立ち並び、路地は複雑に絡み合い、まるで意志を持つように入り込んだ者を惑わせる。
迷路のような路地に身を沈めながら、ベルはただ、気配を断ち、気配を追い、そして気配に追われる。
やがて、ふと足が止まった。
見上げた先。
そこは、魔術ギルドの塔。
《黒き観測者》の術により、疲弊したエラヴィアが眠る場所だった。
ベル(……戻ってきてしまった)
偶然か、それとも無意識の導きか。
薄明かりに照らされたその塔は、まるで静かにベルを待っていたかのように、夜の中にそびえていた。
だが、待ち受けていたのは塔だけでなく、敵の姿が闇より飛び出す。
「見つけた!やはり戻ってきたな!」
もう声を潜める気などないのだろう。
怒声が響いたその瞬間、魔術ギルドの塔の外壁が爆音とともに震えた。
破砕の衝撃が石造りの路面を割り、静寂だった夜の街に騒乱が広がっていく。
それを合図に、数名の術師が周囲に姿を現す。
黒衣の“僧”たち――表向きは聖職者を装っていたが、その手に紡がれるのは戦闘用の魔法。
それも、聖職者であれば本来禁じられるはずの、破壊に特化したものであった。
呪文の詠唱が重なり、空気が軋む。
ベルの周囲を包囲するように、結界と破壊の気配が収束していく。
ベル「……ここでは、まずい」
街を巻き込むには、あまりにも被害が大きすぎる。
無益な犠牲を避けるには、応戦ではなく“消失”が最善。
ベルは息を整えると、一気に爆煙の中へと駆け出した。
陽炎のように輪郭をぼやけさせ、魔力の流れを切り離す。
それと同時に、幾筋もの“幻影”が街中に散っていく。
観測者の追跡術式を欺くため、意図的に複数の魔力の影を走らせたのだ。
その影は夜の闇の中で淡い紫の光を放ち、屋根を駆け、路地を抜け、そして街門へ向かった。
魔力の爆発により上がった煙と歪んだ空気の中、
夜の闇に淡く揺れる紫の光は、観測者たちの目には、まさしく“ベル”にしか見えなかった。
彼らは、まるで獣の群れのように散り、それぞれの“ベルの影”を追い始めた。
そして、真のベルはその騒乱に紛れ、自身の気配を魔力で奪うことで、夜の闇に紛れて静かに歩いていた。
ベル「ここなら……」
古びた墓地の礼拝堂の地下、かつて神官が用いた隠し部屋へと身を潜めた。
壁一面には古の禁呪が刻まれ、今では忘れられた空間。誰の記録にも残されていない。
この場所を知ったのははるか昔、この街に魔法ギルドの塔ができたばかりで、ベルがそこへ滞在していた頃。
ベルは乱れた呼吸を整えると、自身の気配が未だ死神の魔力により隠れていることを確認する。
ベル(しばらく、ここでやり過ごそう)
だが、長くは持たない。観測者たちがどこまで執拗に追ってくるかは分からない。
そして、ベルを狙う別の追っ手のことも気にかかる。
エラヴィアが語っていた《蛇の法衣》も動いているという報せ。
意識して探ると彼らの気配もまた、街のどこかで蠢いていた。
《蛇の法衣》とベルの因縁は深く、彼が纏う独特な視線を、彼女は肌で感じていた。
彼らはベルの正体を、魔術的手段では探知できないことを知っている。
だからこそ、観測者たちの動きを利用しているのだ。
混乱が広がれば、ベルが再び魔力を使う“反応”を引き出せると。
魔力の消耗――それこそが、彼らにとって接触の好機となる。
ベルは今、この街で、二重に狙われているのだった。