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3-48

ナヴィは、ここへ辿り着くまでのことを思い出していた。

ベルを異様な熱で見つめ、無言のまま距離を詰めてきた住人たそその得体の知れない眼差し。

あの空気の中に、理性など存在しなかった。


ナヴィ「……夜になる前に、宿へ戻った方がいい」


そう言った彼の声には、どこか急かすような気配が滲む。

だが、マルベラがわずかに目を細めた。


マルベラ「その宿……今もなお、安全と言い切れるか?」


その一言に、ナヴィの表情がわずかに強張る。

沈黙の中で、目に浮かぶのは街を満たす呪いと、あの名も知れぬ不穏な視線たち。


ノクスが、何気ない声で呟いた。


ノクス「……なぜ、ベルがあれほど執拗に追われたんだ?」


その問いに、ベルは目を伏せたまま、小さく口を開いた。


ベル「……若くて、売り物になりそうな女は、この街じゃ価値があるの。

人売りに出すより、生贄や材料にするために、ね」


声は淡々としていたが、その奥に、言葉にしなかった何かが沈んでいる。

ノクスもナヴィも、それ以上の追及はできなかった。

ややあって、マルベラが口を開く。


マルベラ「ここに泊まればいい。部屋はある。

呪術士の仕事では、解呪の依頼で何日も依頼人を泊めることも珍しくないからな」


そう言って視線を向けた先には、トーノが立っていた。

何も言わぬまま、淡い灯火の中に佇んでいる。


マルベラ「……それに、もう人数分の夕食を作るつもりだったんだろう?」


マルベラの言葉に、トーノは小さくコクリと頷く。


先ほどまでナヴィが待機していた客間には、落ち着いた温もりが満ちていた。


トーノは無言のまま、用意していた食事をテーブルに並べていく。

陶器の深皿に盛られたシチューは、ノクスと外出した際に買った食材で作られている。

肉も野菜も、色も香りも豊かで、街の空気に似つかわしくないほど丁寧に煮込まれていた。

脇には布巾に包まれた焼きたてのパンがふんわりと積まれ、ほんのりと湯気を立てている。


ノクスがスプーンをひと口運び、思わず眉を上げた。


ノクスが「……これ、さっきの干し肉か?信じられないくらい柔らかい。どうやったんだ?」


問いかけに、マルベラは小さく笑みを浮かべる。


「呪具のひとつさ。水を深く染み込ませて、火を通せば……時間は多少かかるがね。あの肉は魔獣のもの、旨味が強いから煮込みに向いてる」


ノクス「なるほど、道理で香りが妙にいいと思った」


ノクスは素直に頷き、また一さじを口に運んだ。


魔具の柔らかな光が部屋を照らし、その明るさの中でマルベラはどこか違って見えた。

さきほどまでの鋭い存在感は和らぎ、小さく、静かな、普通の老女のようだ。

その隣に寄り添うように立つトーノの姿もあいまって、祖母と孫のような親しみを感じさせた。


食後、トーノは一人ひとりに紅茶を配っていく。

最後に、小さな瓶から蜂蜜をひとさじすくい、マルベラのカップへと垂らした。


マルベラ「ありがとう、トーノ」


マルベラがひと口飲んで、ふっと目を細めた。


その仕草に、トーノはほんのわずかに頬を緩め、静かに頷く。

変わらぬ無表情の奥に、どこか誇らしげなものが垣間見えた。


食後、トーノが静かに立ち上がる。

器を一つひとつ丁寧に手に取り、無言のまま片づけを始めた。

その動きに呼応するように、ノクスも席を立ち、「手伝う」と短く言って、彼の後に続く。


音を立てぬ扉の閉まる気配が、室内にわずかな静けさを落とす。

残されたのは、マルベラ、ベル、そしてナヴィの三人。


灯火に揺れる影が壁に淡く映る。

その中で、ナヴィが口を開いた。


ナヴィ「……教えてくれ」


ナヴィのまなざしが、少しだけ鋭さを帯びる。

だが問いかけは静かだった。


ナヴィ「ベルの“それ”……解くことはできるのか?」


マルベラは言葉をすぐには返さなかった。

紅茶の表面を見つめながら、深い呼吸をひとつ置く。


マルベラ「……たぶん、二つは。外側の浅い糸なら、解ける見込みはある。

けれど、それより深いものとなると……どうだろうね。

触れてみなければ、分からない。拒絶されるか、こちらが呑まれるか――どちらもあり得る」


ナヴィの表情に、言葉にしきれぬ焦りがにじんだとき。

マルベラがふと、彼の横顔を見た。


マルベラ「……お前も聞いていたんだろう。風を聞く竜の耳で、全部」


ナヴィは、視線を逸らすようにうつむいた。

その反応に、ベルがわずかに目を細める。微かに笑んだようにも見えた。


ナヴィは少し間を置いて、問いかけた。


ナヴィ「……その、呪いを見てもらった礼は――どうすればいい」


直接的な言葉を避け、慎重に選んだ問い。

マルベラは紅茶の湯気の向こうに遠いものを見るようにして、しばらく沈黙を守った。

やがて、そっと目を伏せて、低く語り出す。


マルベラは、紅茶の湯気を見つめたまま、ぽつりと口を開いた。


マルベラ「……ひとつ、頼みがあるんだ。解呪が終わったらでいい。あの子を、トーノを、街の外へ連れて行ってやってくれないか」


その声は、ごく静かだったが、不思議と部屋の空気を揺らした。

どこか切実な響きがあった。

それは老いゆく身への悔しさか、あるいは長く背負ってきた想いの重さか。


マルベラ「……あの子の命は、もうそう長くはない。

だからせめて、この街よりも綺麗な場所を……一つでも、見せてやれたらと思うんだ」


静まり返る部屋の中、ベルがゆっくりと視線を向けた。

ふと、問うように言葉を落とす。


マルベラ「……トーノは、何者なの?」


マルベラは一度だけ、苦しげに瞼を伏せた。


マルベラ「拾ったんだ。小さな頃に。まるで捨てられた荷のように、ぼろぼろで。

名前を聞いても、あの子は“失敗作”だって……自分のことをそう呼ぶのさ。

始めは、それが自分の名だと思い込んでたらしい」


静かに、灯火の揺れがテーブルを照らす。


マルベラ「詳しくは分からない。けれど、あの子は……何かに“作られた”存在だ。

命の終わりが最初から決まっていて、時間が過ぎるほどに、その残りが削れていく。

呪いに似てはいるが、呪いとは違う。私には“見える”けれど、どうすることもできない」


そこでマルベラは、言葉をひと呼吸分止めた。

そして、紅茶のカップをそっと持ち直しながら、絞り出すように続けた。


マルベラ「優しい子なんだよ。私に懐いてくれて……こんな私を、大切にしてくれる。

なのに、どうして……神さまは、この子を救ってくれないんだろうね……

――どうして、ルクシア様は……」


その名が、確かに落ちた瞬間。


ベルのまなざしが、わずかに揺れた。

ナヴィもまた、言葉にこそ出さぬまま、静かに眉を寄せた。


空気が、わずかに冷たくなる。

それでもマルベラの言葉は、どこまでもあたたかく、せつなかった。


マルベラの話を静かに聞いていたベルが、そっと手を伸ばした。

皺だらけの手を、包むように握る。温もりは弱く、儚かったが、そこに確かな想いが宿っていた。


ベル「……わたしが、連れて行く。トーノを、この街の外へ。約束するわ」


その言葉に、マルベラの目元がわずかに緩んだ。安堵と感謝が滲むように、細い声で礼を告げる。


マルベラ「……ありがとう。ならば私も、あんたの“糸”を――解くと約束するよ。最後まで、力を尽くす」


場の空気が少し落ち着いたそのとき、ナヴィがふと顔を上げた。

彼の目はどこか鋭く、それでいて慎重に言葉を探していた。


ナヴィ「……さっき、“ルクシア様”って、言ったね。あんた、彼女の信徒なのか?」


その問いに、マルベラは目を細めた。遠い記憶をそっと手繰るように、椅子にもたれ、懐かしむような微笑を浮かべる。


マルベラ「……ああ。昔はね。ルクシア様を信仰する教団にいたのさ。

でも、いつしか“呪いを与える”術にものめり込んでしまってね……もっと深く、もっと遠くまで知りたいと思った。

そして……教団を追放されたよ。異端だってね」


肩を竦め、冗談めかして笑う。けれど、その笑みの裏にわずかな寂しさが透けて見えた。


マルベラ「それでも、ルクシア様を信じる気持ちは変わらなかったよ。

毎日、祈りの言葉を唱えてる。こんな年寄りでもね」


マルベラは、紅茶のカップをそっと持ち上げ、静かに一口すする。


マルベラ

「解呪のときには、ルクシア様の力を借りることもあるんだ。

あの方は、どんな立場の者にも平等だ。捨てられた者にも、道を失った者にも、救いを与える。

だから……こんな私でも、まだ“術”を使える」


その言葉に、部屋の空気が不思議なほど柔らかくなる。

矛盾とも思えるその在り方――呪術と、光の女神。

相反するはずのものがひとつの身に宿っているその姿に、ベルはわずかに目を細めた。


それは、まるで暗がりを歩む旅の途中で、ふと灯る小さな明かりを見つけたようだった。

ほんのわずかでも、希望が差し込んだような、そんな気がした。



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