3-47
しんと静まり返った空間。
薄く灯る橙の明かりが、干からびた草や薬草瓶の並ぶ棚をぼんやりと照らしていた。
薬の匂いと埃の混じった空気。古い毛織物が敷かれた床。ここはマルベラの部屋。
マルベラ「少し、見させてもらうよ。……力の流れを」
マルベラがそう言い、片手をすっと差し出す。
皺だらけの手が、まるで時間そのものが形を取ったかのように、ゆっくりとベルの額へと伸びた。
ベルは微かに瞬きをしたが、拒まず、そのまま静かに目を閉じる。
指先が額に触れた瞬間、部屋の空気が微かに震えた。
押し黙っていた空間に、何か古いものが目を覚ましたような気配が漂う。
マルベラの眉間に皺が寄り、彼女はしばし沈黙したまま、ベルの奥底を探るように呼吸を止めた。
やがて、そっと指を離し、深く、深く息を吐く。
マルベラ「……これは、まあ。こりゃあ随分と、禍々しく、美しい」
呟いた声は、讃美と畏怖の入り混じったような響きを帯びていた。
ゆっくりと目を開けたベルに、マルベラはじっと視線を注ぐ。
そして、その口元に薄く笑みを浮かべて呟いた。
マルベラ「よく、生きてたねぇ。こんなにも長く、ひとりで」
ベルは何も言わず、ただ小さく微笑んだ。
マルベラ「ひとつ、思い出したよ。伝承にあった、不死の少女の話をね」
ベルは微かに目を伏せ、曖昧な笑みを浮かべる。
ベル「そんな話、よくあるわ」
それ以上は何も言わない。その表情は、肯定とも否定ともつかず、けれどどこか寂しげだった。
マルベラもそれ以上追及はしなかった。ただ、片目に装着された魔晶石に指を触れると、ごくわずかに念を通す。
ぱちりと右目の奥で何かが点り、その視界が色を変える。
マルベラ「……なるほど、これは……」
ベルを見つめたマルベラの視界には、赤黒い光を帯びた糸が、彼女の身体の奥に絡みつくように伸びていた。
それはまるで、血と闇を編んで形にしたかのような呪いの糸。一本一本が異なる性質と意志を持ち、複雑に絡まり、彼女の自由を密やかに縛っていた。
その糸はベルの魔力回路を通り、そこから影響を与えている。
マルベラ「古い……随分と古い時代の術だ。これを使える術師が、まだ残ってたとはね。……これは“永縁の糸”。」
呟くように名を呼ぶ。
歪んだ愛と執着が形を成し、対象に多層的な呪いを課す。
糸という形象は、目には見えぬ鎖となって、あらゆる自由を奪い続ける。
マルベラは静かに、魔晶石の右目を細めた。
赤黒い糸が、炎のようにゆらめきながらベルの内から浮かび上がる。
それは五本。一本、また一本と順に視線を移していき、
やがて老いた指先が、淡く揺れる糸をそっと指し示した。
マルベラ「……まずは、これだ。《夢を縛る糸》」
声は低く、冷静に整っている。
だがその奥には、魔に触れる者にしかわからぬ重みが潜んでいた。
マルベラ「おそらく、眠っている間……お前は、同じ夢を何度も見せられている。
声や気配、記憶の断片を織り交ぜて。これは、無自覚に心を侵す呪いだ。
即座に害はないが、長く触れていれば、現実と夢の境が揺らぐようになる」
マルベラの言葉を聞きながらも、ベルの目はわずかに伏せられたままだ。
──幾度も見せられる夢の中、セラフの気配が、闇の奥から忍び寄ってくる。
糸は滑るように体を這いまわり、締めつけ、温もりを帯びて入り込んでくる。
それは彼の指と酷似していた。
あの男が、ベルを捕らえ、壊すように触れたときの、あの感触――。
無意識に息を詰めたまま、ベルは目を逸らした。
次の糸に目をやる。
それは夢の糸よりもわずかに濃く、根のように内面へと絡んでいた。
マルベラ「……これは《精神を縛る糸》。精神の深層に干渉するものだな」
マルベラの声が少し低くなる。
マルベラ「お前の内にある、……記憶や感情を、無理やり引きずり出している。
気を失ったり、まともな判断ができなくなるのも、このせいだろう」
彼女は一瞬ベルの顔を見るが、感情は浮かべず、ただ淡々と続けた。
マルベラ「……心にしまったままにしておくべきものを、引きずり出す。
それが意図されたものかどうかはわからない。だが……お前によくない影響を与えているのは確かなようだね」
さらに視線を落とし、細く張り詰めた一本へ。
マルベラ「《言葉を結ぶ糸》……これは、やっかいだ」
マルベラの視線が、糸を捕らえたままわずかに震える。
マルベラ「特定の言葉――おそらく、名だろうな。お前がそれを口にすれば、糸が活性化し、何かを引き寄せ、力を与える。
お前も無意識のうちに、その名を避けているようだね」
ベルの目が細くなる。
――囚われていた日々。
名前を呼ぶたび、セラフの瞳に宿るあの熱が、焼きつくように蘇る。
眉をひとつわずかに上げたまま、ベルは黙した。
そして、視線を逸らさぬまま、次の糸へと向き直る。
四本目の糸は、見る者の心に影を落とすような、異質な気配を放っていた。
マルベラ「……これが、《心を結ぶ糸》」
他のどの糸とも違う、ひどく濃密で重たい気配がそこにはあった。
マルベラ「感情が流れ込んでいる。お前のものではない。……外からの執着だ。
愛とも呼べぬほど熱く、執着と呼ぶには深すぎる。
この熱に触れ続ければ、心はじわじわと染まっていく」
マルベラの顔に、わずかな険しさが浮かぶ。
ベルはマルベラが視線を向ける先に目を向けるが彼女には何も見えない。
その瞳に浮かぶのは、拒絶か、哀れみか。
マルベラ「……これほどの感情を浴び続けて……
お前が自分を見失わずにいるのは、奇跡に近い」
マルベラ「そして、これだ……《命を結ぶ糸》」
言葉にした瞬間、室内の魔がざわめいた。
マルベラの声がわずかに硬くなる。
マルベラ「命が、強制的に結ばれている。どちらかが死ねば、もう一方も共に落ちる。
それだけじゃない……お前の“不死”が、相手にも作用している可能性がある」
マルベラはふっと息を吐き、しかし声を濁さずに言い切る。
マルベラ「あるいは、向こうの命が尽きても、この糸が導く限り……何度でも生まれ変わり、巡り合うのかもしれない。終わることなく、永遠に」
沈黙の中、彼女の右目の魔晶石が瞬いた。
糸は、なおもそこに在る。消える気配はない。
そして、彼女の声が、最後に静かに落ちた。
マルベラ「……編んだのが誰であれ、これはただの呪いじゃない。
“運命”というには、あまりに強すぎる結び目
今、お前に絡みついている糸は、この五本だ」
マルベラは目を細め、その奥をじっと覗き込むように視線を向けた。
マルベラ「……だが、これを使った術者の顔までは見えん。
けれど、お前には相手がわかるのだろう?」
ベルは静かに頷く。
マルベラ「……だろうね。こんな呪いをかけるような狂ったやつだ。
お前が少しでも反応を見せれば、それだけで悦ぶような手合いさ。
あまり考えるべきじゃない」
マルベラは一呼吸置いてから、声を落とした。
マルベラ「……幸い、この街は呪いと古い魔法の気配で満ちている。
糸の先にいる奴も、お前の存在がぼやけて感じられているはずだ。
お前が霞んで見えるうちは――やつも手出しはできまい」
ベルは視線を落とし、そっと息を吐いた。
わずかな安堵と、消えぬ警戒を抱きながら。
マルベラの言葉が途切れ、部屋に静けさが戻った。
魔具の灯火が、わずかに揺れる。
ベルは目を伏せたまま、微動だにしない。
指先だけが膝の上にじっと置かれている。
左手の薬指――そこに絡みつく、彼女には見えぬ赤黒い呪いの糸を、ただ思い浮かべていた。
ふと、扉の外で気配が動く。
音はなく、わずかな空気の変化が先に届く。
誰かが廊下を進んでくる。足取りは、三つ。
控えめにノックの音。
それに続き、扉がゆっくりと開かれた。
顔を見せたのは、トーノだった。
マルベラへと軽く一礼を送り、その背後のふたりに視線を移す。
続いて姿を現したのは、街から戻ったばかりのノクス。
その隣には、控えめな気配を保ったまま、ナヴィが立っていた。
周囲を一瞥しながら、彼の視線が静かにベルに留まる。
わずかに眉が動いた後、短く声が落ちる。
ナヴィ「……話は終わったのか? そろそろ夜になる。宿へ戻るべきだ」
部屋に満ちていた重苦しい気配が、扉から流れ込んだ外気とともに、わずかに揺れた。