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3-46

石畳の路地に、靴音が静かに響く。

灰色の空の下、建物はどれも背が高く、細長い。木と石を組み合わせた古びた造りに、煤けた看板や、ひび割れたガラスが点在している。そこには、長い年月を経た街の空気が色濃く滲んでいた。


ノクス「……やっぱり、空は見えないんだな」


ノクスがふと足を止め、上を見上げながらぽつりと呟く。

建物同士の間は狭く、屋根や張り出しが複雑に重なり合って、空を覆っていた。灰色の光が、まるで街全体を薄く覆う布のように広がっている。


トーノ「この街は、そういう造りになってる」


トーノの声は変わらず、機械のように淡々としている。


トーノ「明るすぎると、見られたくないものまで見えてしまうから」


ノクス「ふうん……そういう理屈か」


ノクスは口元だけで笑い、軽く肩をすくめながら小さな露店の並ぶ角を曲がる。


通りには人々の姿がちらほらあった。

皆、どこか影を背負ったような顔つきで、目が合うことはほとんどない。

うつむき加減に歩く人、黙って店先に立つ商人。

売られている品々もまた、どこか不思議なものばかりだった。

乾燥した紫色の根菜、ラベルの貼られていない瓶詰め、奇妙な形をした小さな石の細工物。


そのとき、トーノがふと足を止める。

小さな屋台の前で、無言のままひとつの瓶をじっと見つめていた。


ノクス「何を探してるんだ?」


ノクスが歩みを緩め、隣のトーノに目を向ける。


トーノ「蜂蜜。マルベラが好きだから」


トーノはそう答えると、一つの瓶を手に取り、じっと見つめた。


ノクスも肩越しにその瓶を覗き込む。

この露店に並ぶ品々は、この街にしては珍しく整っていて、保存状態も良さそうだった。ガラス瓶の中には、淡い金色の液体が光を帯びて揺れている。


ノクス「紅茶に入れるなら、こっちのほうがいい。香りが柔らかい」


ノクスが別の瓶を指さす。


ノクス「料理に使うなら、こっちの濃い色のやつが合うな」


トーノは一瞬目を見開き、表情こそ乏しいが、その声音にはわずかな喜びが滲んだ。


トーノ「ありがとう。……マルベラ、喜んでくれるかな」


ノクス「さあな」


ノクスは小さく笑い、わずかに目を細めた。どこか張っていた空気が和らぐような気配があった。


ノクス「おまえ、あの婆さんにずいぶん懐いてるんだな」


トーノは蜂蜜の瓶を胸の前で抱え、ぽつりと答える。


トーノ「……拾ってくれたから」


そして、ほんのわずかに首を傾げる。


トーノ「僕には、マルベラしかいない」


ノクスは何も言わず、その横顔をしばらく見ていた。


やがてトーノは紅茶用の蜂蜜を一瓶選び、静かに代金を支払って露店を後にした。


再び石畳を踏みしめながら歩き出すと、どこからか香草の香りが漂ってきた。

通りの先の家々のどこかで、煮込み料理の支度がされているのだろう。

煙突から昇る煙が、灰色の空に細く溶け込んでいく。


ノクス「この辺りは安全なのか?」


ノクスが周囲に目を走らせながら尋ねる。


トーノ「比較的には」


トーノは即答する。声の調子は相変わらず淡々としていて、その言葉に過剰な感情はない。

ノクスはその返答に、わずかに目を細めた。


ノクス「ま、さっきよりは落ち着いてるな。……助かるよ」


トーノは無言のままうなずく。


少し歩いた後、彼がふと問いかける。


トーノ「ノクスは、何を探しているの?」


ノクスは立ち止まり、少しの間だけ言葉を選ぶように沈黙した。


ノクス「ベルの……彼女の呪いについて、何か手がかりがあればと思ってな」


言葉の最後を濁しながら、ノクスは視線を横に向ける。


トーノ「ついてきて」


トーノは道の先に視線を向けながら、さらりと言った。

ノクスが首をかしげると、彼は淡々と続ける。


トーノ「図書館。……って、マルベラが呼ぶ場所がある」


ノクスはその言葉に興味を示し、歩調を合わせる。

路地の向こうに、また新たな灰色の影が広がっていた。


図書館へと続く道は、街の中でも治安が悪いことで知られていた。


舗装の甘い石畳には割れや欠けが目立ち、建物の壁には風雨に晒された汚れが濃く残っている。窓は閉ざされ、人の気配はあるのに目を合わせようとする者はほとんどいない。


トーノはこの路地を歩くことに慣れていた。

マルベラの小間使いとして名の知られた彼に手を出そうとする者はいない。

呪術士であるマルベラを恐れる住人たちは、彼女の周囲に関わることを避けるからだ。


だが今日は、様子が違った。

見知らぬ男──ノクスを連れて歩いていることで、普段とは異なる視線を感じる。


すれ違いざまに聞こえてくる、マルベラに関する陰口。


「呪い婆め……」


「よくあんなのに仕えてるな……」


そして、トーノを憐れむような声。


「可哀想にな……子供なのに」


それでも、トーノは笑っていた。

自分は、真実を知っている。

だから、何も知らない人たちに何を言われても気にならない。

そう、自分に言い聞かせるように、小さく微笑む。


だが、次の言葉には、表情が凍る。


「へえ、とうとう客を取らされるようになったのか?」


「なあ坊や、今夜は俺の相手もしちゃくれねえか?」


下卑た声と笑い声が、汚れた空気に混じって飛んでくる。

トーノの手の中で、蜂蜜の瓶がかすかに震えた。


ノクスはその震えを見逃さなかった。

ふっと表情をゆがめ、すれ違った男たちの背に向かって、鋭い視線を投げる。


ノクスの鋭い視線が、声を投げかけた男たちを射抜いた。

無言のまま睨まれるだけで、彼らは肩をすくめ、ふざけたように笑う。


「おお、怖い怖い」


「マルベラの連れもなかなかだな」


そう言い残して、男たちは軽薄な足取りで通りの向こうへと消えていった。


ノクスは舌打ちを噛み殺し、トーノの隣に目を向ける。

少年の手には、蜂蜜の瓶。軽く震えていた。


ノクス「……悪かったな。俺のせいで、嫌な目に遭わせた」


トーノはすぐに首を振った。

その仕草はややゆっくりで、どこか諦めを含んだようにも見える。


トーノ「平気。慣れてるから」


そう言いながらも、彼の笑みはわずかに悲しげで、目だけがどこか遠くを見ていた。


しばらく無言のまま歩き続けると、道の先に目指していた場所が現れる。

朽ちた看板も掲げられていない、くすんだ石壁の建物。そこにぽっかりと開いた、地下へと続く階段があった。


トーノ「図書館は、この下」


トーノが指差し、小さく足音を立てて階段を下り始める。

ノクスも黙ってその後に続いた。灰色の光が背後に遠のき、階段はゆっくりと薄闇の中へと沈んでいく。


階段を降りきると、石壁に囲まれた先に重厚な扉が一つ。

古めかしい造りながら、不思議と汚れひとつ見当たらない。

ひびも錆もなく、あの煤けた街並みとはまるで別世界のようだった。


トーノが扉の前で立ち止まり、小さく息を吐いてから押し開ける。

軋む音もなく静かに開かれたその奥には、薄暗い書物の海が広がっていた。


天井まで届くほどの本棚が幾重にも並び、その合間を静寂が満たしている。

光源は外の通りと同じく、床の石がぼんやりと青白く光を放ち、それが棚の輪郭をほのかに浮かび上がらせていた。


ノクスは足を踏み入れながら、小さく呟いた。


ノクス「……同じ街とは思えないな。あの喧騒と汚れから、こんな整った空間が現れるなんて」


トーノ「街の人たちは、本なんて読まないから、この辺で本を開くのは、マルベラくらい」


沈黙に包まれた空間に、果てしなく続くかのような本棚の列。

ノクスが周囲を見回しながら尋ねる。


ノクス「……ここは、どのくらい広いんだ?」


トーノ「さあ……でも、街のいろんな場所に入り口があるって、マルベラが言ってた」


トーノの言葉に、ノクスは静かに目を細めた。


ノクスはしばし沈黙し、無言のまま書棚を見渡した。

この街が、こんなにも膨大な知の財産を抱えていたとは。


ノクス「……図書館って言うくらいだ。やっぱり本を借りるには許可がいるのか?」


そう問いかけると、トーノは小さく首を横に振った。


トーノ「ここにある本は、持ち出しても、しばらくすると元いた場所に自然と戻る」


ノクス「魔法の仕組みか?」


トーノ「たぶん。詳しいことはわからない


ノクスの眉が上がる。魔法機構の類か。

それは興味深い話だったが、トーノもすべてを知っているわけではない。

好奇心は宙を彷徨い、やがてそのまま視線は棚に向かう。


古代語で記された羊皮紙の束、異国の筆致で綴られた日記、見たこともない生き物の図鑑。

一つの本棚に、あらゆる時代と地域、主題の本が無造作に並んでいる。


ノクス(こんなに雑然としていては、目当ての本など見つかるはずもないな)


そう思い始めた矢先、ノクスの視線がある一冊に引き寄せられる。

他の本よりも比較的新しい装丁が目を引いた。背表紙には『エン=ザライアの歴史』と記されている。


手を伸ばし、それを静かに引き抜いた。

ページをめくると、整った筆跡と挿絵、地図に章立てが綺麗に並び、まるで読み手を導くように編まれている。

手ぶらで帰るのも、どこか物足りない気がし、ノクスはその歴史書を手に、図書館を後にした。


階段を登りきり、再び外の通りへ出る。

だが、空の色は相変わらず見えず、昼夜の感覚も曖昧なまま。時間の流れが掴めない。


トーノは、先ほど買った蜂蜜の瓶を大事そうに両腕で抱えていた。

道すがら、立ち寄った露店で干し肉と野菜をいくつか手早く買い足す。慣れた手つきで袋に詰めながら、値段を交渉する様子はこの街での暮らしの長さを物語っていた。


トーノ「今夜はシチューかな……」


トーノがぽつりとつぶやくと、ノクスはそれに微かに目を細めた。


ふたりは荷を手に、それぞれの思いを胸に、ゆっくりと帰路についた。


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