3-45
マルベラはごそりと体をずらし、枕元から手をすっと伸ばす。
マルベラ「おいで、お嬢さん。こちらへ」
その声は年老いた猫のように、掠れながらも妙に柔らかい。
ベルが一歩踏み出そうとすると、すかさずナヴィとノクスが動く。
ナヴィはわずかに身を乗り出し、ノクスも無言でベルの背をかばうように一歩前に出た。
ナヴィ「……ベル」
ナヴィの声には抑えきれぬ警戒と不安がにじむ。
だがベルは、そっと手を上げて二人を制した。
ベル「大丈夫。少しだけ話すわ」
その声には、どこか静かな決意と、懐かしさにも似た響きが宿っていた。
マルベラの前へと進み出たベルは、床に敷かれた古びた毛織物の上に膝をついた。
それを見たマルベラは小さく笑い、やがてゆるりと問いかける。
マルベラ「名前は?」
ベル「ベル」
短く答えると、マルベラの目がじっとベルの顔を捉える。
マルベラ「それは……本当の名前かい?」
ベルはほんの一瞬だけ目を伏せた後、かすかに唇をゆるめた。
ベル「たぶん」
その答えに、マルベラは片眉をひそめた。
その目が、じっとベルの奥にあるものを見ようとするように鋭くなる。
マルベラ「……こりゃ驚いたね」
言いながら、眉間に深い皺を寄せて、マルベラは顔をしかめた。
マルベラ「失礼したよ。お嬢さんかと思ったら……私よりも、よっぽど長い時を生きている」
呟くようにそう言って、マルベラは視線を落とした。
その声には、老いた者にしか分からぬ、得体の知れぬ感覚への畏れが混じっていた。
ベルは静かに微笑むと、そっとマルベラの手を取る。
その手は冷たく、骨ばっていて、それでもどこか人のぬくもりを確かに宿していた。
ベル「かまわないわ、マルベラ。それよりも、あなたの力を貸してほしいの」
マルベラはしばし目を閉じていたが、やがてゆっくりと頷いた。
マルベラ「……少し、時間がかかりそうだね」
そう言うと、視線を隣の少年へ向ける。
マルベラ「トーノ、お客様たちを案内してやっておくれ。あの広間で待っててもらうといい」
トーノは無言で一礼し、すっと立ち上がる。
その瞬間、ナヴィがほんのわずかに前に出る。
その目は鋭く、獣が牙を隠さず睨むような警戒心に満ちていた。
マルベラは彼の視線を真正面から受け止め、口元に皮肉めいた笑みを浮かべた。
マルベラ「銀の竜人よ、安心しておくれ。……この方を傷つけることなど、今の私にはできやしないさ」
その言葉は、まるである種の契約でも交わした者のように、重く静かに響いた。
やがてトーノは音もなく歩き出し、ナヴィとノクスに手招きをする。
ノクスがベルをもう一度振り返るが、ベルは小さく頷くだけだった。
二人はトーノに導かれ、屋敷の奥、客間へと消えてゆく。
部屋には再び、ベルとマルベラだけが残った。
薄暗い光の中、魔晶石の瞳がふたたびゆらめく。
マルベラの部屋の鬱蒼とした、まるで長い年月を閉じ込めたような重たい空気とは対照的に、客間は明るく整っていた。
観葉植物がさりげなく置かれ、控えめな香草の香りが漂う。
ナヴィは部屋の様子に目をやりながら、低く唸るように呟いた。
ナヴィ「……信用できるのか?」
ノクスはソファに腰を下ろし、軽く肩をすくめる。
ノクス「どうだろうな。だが、少なくとも今は――彼女に頼る他がない」
その声には、警戒心とわずかな諦めが滲んでいた。
そのとき、ふわりと扉が開き、白い影が音もなく現れる。
トーノだった。銀の盆に丁寧に並べられた茶器を持ち、無言でテーブルに置く。
トーノ「マルベラは……優しい人。誰よりも、信頼できる」
機械のような整った声色。それでも、そこには微かなぬくもりが宿っていた。
ナヴィはその言葉を聞きながら、少年の横顔をじっと見つめた。
無表情で感情の読めないその姿には、不思議な静けさと、どこか危うい儚さが漂っている。
――ベルに、少し似ている。
そんな考えがふと頭をよぎる。
トーノは一礼し、再び音もなく部屋を後にした。
扉が静かに閉じると、ノクスがぼそりと漏らす。
ノクス「……ただの子どもには、見えないな」
ナヴィも頷いた。
ナヴィ「何かがある。あの少年」
部屋に静けさが戻る中、二人の間に慎重な沈黙が広がっていった。
少しの間の後、客間に控えめなノックの音が響いた。
扉が静かに開き、トーノが姿を現す。肩に小さな鞄をかけ、出かける準備をしたようだ。
トーノ「これから買い物に行く」
淡々とした声が部屋に響く。
トーノ「マルベラに言われた。目的があってこの街に来たのなら、ついでに安全な場所を案内してやれと」
ナヴィは一瞬、ノクスと視線を交わし、それから静かに首を横に振った。
ナヴィ「遠慮する。ベルから離れるわけにはいかない」
言葉には冷静な響きがあったが、その奥には確かな警戒と慎重さが潜んでいた。
ナヴィ「この街では空が見えない。構造も不自然で、何が起こるかわからない。……警戒はしておくべきだろう」
トーノは一瞬だけ黙り、感情の読めない灰色
の瞳を細める。
トーノ「そう……判断は任せる」
するとノクスが軽く肩をすくめた。
ノクス「俺が行くよ。街の様子も気になるし、下見もしておきたいと思ってたところだ」
彼の目には警戒もありつつ、好奇心と探索者としての本能が宿っている。
ナヴィは再びノクスを見やった。
ナヴィ「……気をつけろ」
その言葉は短く、だが確かな信頼を含んでいた。
トーノは無言で頷き、ノクスの先を歩くように、静かに部屋を後にした。